2023年6月23日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇

 131年正月甲申朔戊子、多遅麻の妃の五十琴姫と五十琴彦が纏向日代宮で即位した。240年頃まで纏向遺跡には人が住み、多遅麻は128年に追い出された。追い出した人物が五十琴彦兄弟だ。133年正月癸酉朔己卯の「武内宿禰爲大臣」は350年の日干支の説話である。仁徳五十年362年に「天皇於是歌以問武内宿禰」と、歌による問答が記述された。また、允恭五年416年「武内宿禰之墓」と、416年以前に薨じている。大臣の子の木菟と天皇の子の鷦鷯が同日に生まれ、孫の崩が410年だ。交換した子の兄弟の薨が甲午年394年九月九日の16年後、大臣は、同程度の差なら370年代で薨である。大臣生誕の景行三年二月庚寅朔の日干支は間違いの日干支、正しくは、313年生まれと思われ、武内宿禰は死亡が60歳代である。

134年春二月丙寅朔は『後漢書』・『三國志』や『翰苑』にあるように、大倭王が倭を統治した。現地を統治するのは、物部君の祖の夏花で、五十琴宿祢の兄弟の竺志と思われる。しかし、翌年にかけて、「國郡立長縣邑置首」と無理やり國の長を任命した。更に、「山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を定め、邪馬台国を拘奴國王に任せた。そして、拘奴國王は、さらに、夏磯媛から奴国を奪って、125年に『室見川銘版』にある「永宮」を造った。句々廼馳、狗古智卑狗が王名である。しかし、それが失敗で、「桓靈間倭國大亂」が起り、「東度海千餘里至拘奴國」と拘奴國を追い出した。「歴年無主」だったが、邪馬壹國王の厚鹿文が勢力を伸ばした。そして、202年に市鹿文が火國造となり、卑弥呼だ。国境線を引くのに、鏡を使い、良質な漢式鏡が必要だったと思われる。三角縁神獣鏡は国境線を引くのに必要だったと思われる。

190年六月己巳朔己卯に五十琴姫と五十琴彦の政権が倒れ、神功皇后と五十琴宿祢兄弟を後ろ盾にした、五十功彦が継承する。五十功彦は伊勢刑部君と三川三保君の祖で、伊勢女王と三川君の娘を妃にしたと思われる。『舊事本紀』では、景行天皇多遅麻の子の五十狹城入彦が三河長谷部直の祖、倭宿祢が三川大伴部直の祖である。『舊事本紀』は垂仁天皇十市根の子の膽咋、その娘五十琴姫の婿の景行天皇多遅麻の子が五十功彦と記述している。『古事記』では美知能宇志の子の朝廷別が三川の穗別の祖。そして、垂仁天皇と苅羽田刀辨の子の落別は三川の衣の君の祖である。垂仁天皇の子に伊勢女王の倭比賣が存在し、その婿が朝廷別の落別と考えられる。坐王と苅羽田刀辨の子に大俣がいて、意富阿麻比賣に婿入りし、その子が分朝廷した大中日子の曙立多遅麻だった。その子の大枝は、庶妹の銀を妃に大中比賣を生む。膽咋は三川穂國造美巳止の娘を妃にしていて、その子が竹古で、三川蘰連の祖だ。その娘を五十琴彦が妃にしている。したがって、この五十琴彦の娘が五十功彦の妃の可能性がある。

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