2023年6月21日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 成務天皇前期3

 豊木入日子の子、彦狹嶋の父は曙立と考えられる。曙立は倭者師木登美豐朝倉の王、すなわち、淡海国の師木と登美(生駒)と豐と朝倉(?九州の豐の朝倉)の王で、師木玉垣宮の武諸隅大連と考えられる。曙立の父大俣は苅幡戸辨と日子坐の子である。大毘古の子の坐王の義兄弟の建沼河別は建諸偶の妹の大海姫の娘の沼名木之入日賣に婿入りしたと思われる。佐波遲比賣の子は品牟都和氣(大筒木垂根)品遲部君である。建沼河別の姉妹の大伊賀姫の子の大俣(落別)、その子が曙立と思われ、伊勢品遲部君である。

豊木入日子の妹の豐鋤入日賣は水之穗眞若を婿にした。それに対して、豊木入日子は水之穗眞若の姉妹に婿入りするのが慣例だ。それが、水之穗眞若の兄弟の丹波比古多多須美知能宇斯と思われる。したがって、水之穗眞若(大入杵)、神大根(八瓜入日子)、婿の比古多多須と十市根が兄弟である。大中日子は十市根の義兄弟で、尾張國三野別の祖だったが、神大根も三野國の本巣國造の祖でピッタリだ。比古多多須の子は朝廷別、曙立は倭者師木登美豐朝倉の王でピッタリだ。そして、曙立王の大中日子(多遅麻・八瓜入日子)は景行五八年128年に志賀高穴穗宮に逃れた。膽咋宿祢の子の皇后五十琴姫の兄弟達に追い出されたからだ。そして、子の彦狹嶋は都督に任命されたが都督は三国時代からあった。なので、景行五五年の二月戊子朔は244年の説話だったことが解る。

 伊勢斎王すなわち伊勢王女は『古事記』が豐鋤比賣、そして、大帶日子の妹倭比賣、天國押波流岐廣庭の妹の佐佐宜王が記述され、他書にはない。『日本書紀』には雄略期の稚足姫まで記述されない。豐鍬入姫は伊勢と記述せず、「祭於倭笠縫邑」と記述され、倭笠縫邑が伊勢である。倭姫も祭伊勢の直接表現がない。『舊事本紀』は尾張氏朝廷の『古事記』にいない倭迹迹姫、五百野姫、そして雄略朝の稚足姫である。伊勢女王の初出は天照と月読で「伊勢齊大神」だ。そして、建甕槌の婿入り先が伊勢主の娘の賀貝呂姫。伊勢主は「天日鷲命爲伊勢國造」と和珥氏の東征の配下だった。「神風の伊勢」の歌を歌った場所だ。その後、「伊勢齋祠」の倭迹々が継いだ。伊勢麻績君である。倭迹々は大物主神の妃の倭迹迹日百襲姫と『日本書紀』は混同している。すなわち、大物主の建飯賀田須が伊勢大神を継いだ。

その後、大田田根子から豐鋤比賣が継いだ。すなわち、伊勢の品遲部君の曙立王が引き継いだ。そして、垂仁二五年に豐鋤比賣から倭比賣に伊勢宮の女王が交代した。すなわち、豐鋤比賣・大入杵夫妻を祀る志賀高穴穗宮が、倭比賣(阿麻比賣)に主が変わった。五十功彦が伊勢刑部君、纏向日代宮天皇の子で、倭比賣の義兄である。その後は、五百野が継いだ。『古事記』には倭建と吉備臣建日子の妹の大吉備建比賣の子の建貝兒が伊勢の別と記述する。『舊事本紀』には「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と八坂彦の子が伊勢麻績を継いだ。すなわち、五百野は八尺入日子の妃、八坂之入日賣の母と考えられる。吉備臣は小碓の子の帯中日子・吉備上道国造で、小碓の母の伊那毘能大郎女の父は吉備臣の祖の若建吉備津日子である。

 

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