2023年6月12日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇6

 倭建説話の元となった説話は豐木入日子の孫の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」の説話と考えられる。景行五十四年秋九月辛卯朔己酉は222年と考えられる。また、景行五十五年春二月戊子朔壬辰も244年と考えられる。244年に彦狹嶋が都督就任して、志賀高穴穂宮朝廷が分裂したようだ。都督は三国時代から始まっている。すなわち、纏向日代宮は豐木の長子の嫁、八瓜の娘が奪った八瓜天皇だ。それで、八瓜の娘と豊木の長子との子が彦狹嶋とわかる。景行天皇が128年に志賀高穴穂へ逃れ、その時、彦狹嶋も逃れたと思われる。そして、222年に「伊勢還於倭居纒向宮」と纏向日代宮に戻ったと思われる。その後、今度は関東に向かい、244年に都督となった。

 同様に、熊襲遠征は、『三国志』にある通り、「桓靈間倭國大亂」と、146年から188年までの間に発生している。すなわち、成務天皇の時代である。景行天皇十二年に「市鹿文賜於火國造」と市鹿文、卑弥呼が火國造になった。もちろん、景行ではなく、仲哀12年にあたる202年である。応神十一年、「日向國有孃子・・・諸縣君牛諸井之女也」の 280年が熊曾建との戦いと思われる。応神十三年、282年の「髪長媛至自日向」が熊曾建との戦いの戦果だ。その結果、応神二十年、289年には「倭漢直祖阿知使主」が「率己之黨類十七縣而來歸焉」と晋の影響下だったけれど、朝廷に帰順した。

 また、出雲建の説話も、出雲臣の説話が額田大中彦の説話の中で「出雲臣之祖淤宇宿禰」が記述される。この時の葛木王が大帯日子で、318年に薨ずる。景行天皇の妃に倭建の曽孫の大中日子の娘がいる。この倭建は沼河別と考えられ、その説話を小碓へと流用したようだ。また、伊久米伊理毘古の娘の布多遲能伊理毘賣が小碓の妃で、伊久米伊理毘古と大帯日子が併存していた。少名日子と十市根と考えられる。

 景行天皇は纏向日代宮大連の多遅麻で、垂仁天皇師木の大連武諸遇の子だ。当然多遅麻は即位時、師木天皇だ。71年、秋七月己巳朔卯己卯に即位して改元した。膽咋宿祢は志賀高穴穗宮天皇の娘を妃にしている。武諸遇の妃は膽咋宿祢の娘の清媛の子だが、多遅麻は師木天皇を志賀高穴穗宮に追い出した。そして、多遅麻は膽咋宿祢に敗れたのだろうか。翌年の景行二年春三月丙寅朔戊辰に五十琴彦の娘の安媛を妃にしたのだろう。そして、74年に師木から纏向日代宮に遷都した。師木は膽咋宿祢が奪い、大臣となり、師木の大縣主となった。膽咋宿祢の兄弟の印岐美が志紀縣主の祖である。 

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