以前、景行12年の熊襲侵攻は成務天皇崩190年で交代した政権の12年の202年の記録と述べた。火国造になった市鹿文・卑弥呼の記録だ。神夏磯媛が(邪馬)一(壹)國の魁帥で、魏以前から、伊都国に一大率を置いて檢察したと『三国志』は記述する。伊都は伊襲と呼ばれていて、夏磯は那珂川の那津伊襲姫と考えられる。王が神に仕え、兄弟の男王が統治する。夏磯媛が伊襲国を支配し、一大率でもあったと考えられる。
景行天皇の敵は菟狹の川上の鼻垂、御木(?三毛)の耳垂で『後漢書』「女王國東度海千餘里至拘奴國」だ。内容は、筑紫の説話が、急に、菟狹の説話に飛んで、矛盾している。これは、82年景行十二年の「八月乙未朔己酉幸筑紫」に続く夏磯媛説話は倭国の説話。そして、景行天皇の「熊襲反」は時代が違う説話と思われる。夏磯媛説話は82年の那珂川の説話だ。そして、夏磯媛の子が帥升で、125年の室見川銘版があるように、「永宮」を造った王朝に替わった。夏磯媛が那珂川近辺の須久岡本古墳の被葬者の可能性が高い。
景行十八年の「到筑紫後國御木」の「秋七月辛卯朔甲午」も間違いで、305年と考えられる。『三國志』にあるように、倭国は晋朝に臣従していた。しかし、289年に倭国が帰順し、豊国から「南有狗奴國」と筑後に領域が縮小した狗奴の討伐が、「筑紫後國御木」の記事と思われる。倭国の南の御木から浮羽での戦いで、「狗奴國」が敗れたが、そのあと、日向に向かっている。方向違いだ。景行「十九年秋九月甲申朔癸卯」、これは332年にあたる。394年死亡の品陀和気が日向で誕生したと考えれば、理に適う。そして、景行「五十一年春正月壬午朔戊子」の若帯日子と武内宿禰が「不參赴于宴庭」は338年と考えられる。若帯日子は乙卯年355年に薨じ、この時、武内宿禰は18歳、この功績で内臣の棟梁になり、矛盾はない。成務「三年春正月癸酉朔己卯」は350年で武内宿禰が30歳で大臣になった。景行「五十二年夏五月甲辰朔丁未」、「秋七月癸卯朔己酉」の皇后交代は308年と思われる。若帯日子の前王、薨年318年より前だ。
『舊事本紀』「三十六年八月大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫為妃」と『日本書紀』に記述されない記事がある。纏向天皇多遅麻は「五十琴彦連公女安媛爲妻」と記述されている。高穴穂宮大臣の膽咋宿祢の娘が五十琴姫、日代宮大連の多遅麻が五十琴姫の兄弟の娘を妃にして、矛盾している。すなわち、高穴穂宮と日代宮が同時期に併存していたことが解る。纏向遺跡は230年頃まで人が住んでいた。膽咋宿祢は日代宮皇子で景行三十六年以降に生れた。五十八年に穴太(穴穂)足尼の娘に婿入りし、穴太足尼は穴穂宮の穴穂王なのだから穴穂宮天皇である。多遅麻が纏向天皇なら、分裂した師木大連の武諸遇の後継者が穴太足尼だった。安國造の祖の意富多牟和氣の水穗眞若、娘が布多遲比賣なので、倭建の妃の布多遲能伊理毘賣の父の垂仁天皇だ。そして、その子の大陀牟夜別が志賀髙穴穗朝の時に淡海國造になった、すなわち天皇穴太足尼だ。
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