2023年6月26日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仲哀天皇前期

 仲哀天皇は不明な人物だが、大中姫と神功皇后の夫である。息長帯日売が362年壬戌年の六月十一日に崩じているので神功皇后は別人だ。同じように、吉備上道国造の帯中日子も、息長帯日売の夫で、同時に薨じているようで、別人である。大中姫は若建吉備津日子の娘の伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄の娘である。すなわち、景行天皇、大中日子の孫である。伊那毘能若郎女は大帯日子の叔母、比古布都押之信の分家で紀伊國徳勒津宮の姫と考えられる。紀伊國は山代の木国である。神功皇后は磐余稚櫻宮天皇の五十琴宿祢大連の妹か娘と考えられ、膽咋宿祢の子か孫である。帯中日子が吉備上道国造で若建吉備津日子の末裔、神功皇后の末裔の可能性が高い。

纏向宮が240年位まで存続した。したがって、景行天皇が志賀高穴穗宮に逃れてから、五十琴姫が支配していたと考えられる。その後継者が仲哀天皇であり、五十琴宿祢の妹か子の神功皇后だ。すなわち、仲哀天皇は景行天皇の子の可能性が高く、五十琴姫と景行天皇の子の五十功彦と考えられる。五十の功彦の妃だから神功で、神は三国・若狭の姫の「み」の意味で、角鹿の笥飯宮の姫である。三国の女王で、事代の王の皇后と言っている。

 景行天皇大中日子は仲哀天皇が継承し纏向日代宮天皇多遅麻大連を継承したと考えられる。多遅麻の妃として五十琴彦の娘の安媛が記述されている。そして、五十琴姫も妃だったが、仲哀天皇の母で、磐余稚櫻宮天皇の妹だが神功皇后ではない。しかし、磐余稚櫻宮天皇五十琴宿祢大連の妃が多遅麻の娘の香兒媛だ。この多遅麻は五十琴宿祢の義父で義兄でもあり、膽咋宿祢を襲名したと思われる。天皇になってから、五十琴宿祢になる。だから、五十琴宿祢の娘も五十琴姫と呼ばれ、多遅麻の子の五十功彦の妃となった可能性高い。

 ここで、『古事記』では大江王は大中比賣の父だが、『日本書紀』は日子人之大兄が父と記述する。これは、すなわち、大江王が伊那毘能若郎女の娘に婿入りして、日子人之大兄と呼ばれたことを意味する。

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