2019年1月30日水曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝1

 『古事記』は仁賢天皇が書き『日本書紀』の崇峻天皇までと『古事記』及び『先代旧事本紀』を完成させたのは馬子で、仁賢天皇から推古天皇までの天皇名は遠慮なく馬子の家系の名前を記述すればよい。
履中天皇四年「記言事達四方志」と仁徳天皇まで史書を作った履中天皇には葛城氏の允恭天皇までの名前が記述され、それを継承して雄略天皇は日本書紀に平群氏の名前を書き足し、仁賢天皇は仁賢天皇までの巨勢氏の名前を史書に残した。
そして、雄略天皇二一年「日本舊記云」・宣化天皇四年「皇后崩年傳記無載」と宣化天皇まで記述された史書や系図が残されていて、おそらく、それには継体天皇まで記述されていた可能性が高く、「男大迹」には役職名が思い浮かばないことから天皇名と考えてよいと思われる。
従って、それ以降は馬子の家系の名で推古天皇まで残り、それに追加したのは、推古・舒明を書き足した、舒明の皇太子とされる天智天皇で、実際に記述したのは『先代旧事本紀』を馬子が書いたように、孝徳天皇即位前紀「以中大兄爲皇太子以阿倍内麻呂臣爲左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」と蘇我氏で舒明天皇も蘇我氏の名前と考えられる。
そして、その舒明天皇の名前は「息長足日廣額」で息長氏の氏族長のように書かれ、本来は物部氏の氏族長の姫の血を継ぐ入鹿が皇位を継いだ時に完全な天皇になることができたと考えられる。
そして、蘇我氏の継体天皇は継体天皇即位前紀「譽田天皇五世孫彦王人王之子也」で応神天皇は葛城王朝の応神天皇武内宿祢で、『古事記』大倭根子日子国玖琉「娶木国造之祖宇豆比古之妹山下影日売生子建内宿祢」と紀伊国造の祖の孫すなわち義理の兄弟が木国造の武内宿祢、応神天皇の親は帯中日子と中(なか)国王で血縁が若国王、母親が息長帯日売で息長氏の氏族長である。
そして、『古事記』品陀和気「息長真若中比売生御子若沼毛二俣王」と母と同様に息長氏の皇子で、仲哀天皇の父 倭建は「倭建命・・・一妻之子息長田別王」・「是倭建命之御子等・・・次息長真若中比売・・・息長田別王之子杙俣長日子王。」と子が息長田別王や応神天皇の妻が 倭建の姫の息長真若中比売でおそらく、「一妻」は息長氏の姫で息長宿祢の兄弟であろう。
『古事記』品陀和気「此品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日売真若比売命生子大郎子亦名意富ゝ杼王」と 若野毛二俣王の妻も息長氏で『仮名源流考. 証本写真』の上宮記逸文に「此意富富等王・・・兒乎非王・・・兒汗斯王」と記述され『日本書紀』継体天皇即位前紀「譽田天皇五世孫彦主人王之子也」と血筋を記述される。
5世の孫だから百数十年程度前が応神天皇で葛城氏の応神天皇の武内宿祢の末裔の蘇我氏で間違いない様で、汗斯王は「近江國高嶋郡三尾」と近江国に居て、近江国は巨勢氏の領地で、巨勢氏が負けて安閑天皇に没収された土地すなわち蘇我氏は巨勢氏の配下であったが、蘇我氏は葛城氏の末裔であり、母振媛は「活目天皇七世之孫也」と垂仁天皇の末裔・三国出身で尾張氏の姫で、稲目は尾張の屯倉を支配している。
そして敏達天皇四年「立息長眞手王女廣姫爲皇后・・・押坂彦人大兄皇子」と押坂彦人は舒明天皇即位前紀「息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彦人大兄皇子之子也」と息長氏の皇子を証明し、継体天皇元年「次息長眞手王女曰麻績娘子 生荳角皇女 是侍伊勢大神祠」と息長氏は継体天皇の妃でもあり、蘇我氏は息長氏の家系でもある。

2019年1月28日月曜日

最終兵器の聖典 物部帝皇王朝4

 『日本書紀』継体十七年「夏五月 百濟國王武寧薨」と、ある王の17年が522年の王、もちろん、おそらく男人で、継体天皇元年「爲宗廟社稷計不敢忽」と即位したが、まとめきれず、517年「十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國」に物部目が弟国で『隋書』「秦王国」を建国して継体帝を名乗り、九州では磐井が継体天皇二一年「筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・磐井掩據火豐二國・・・外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」と火・豊国を侵略して朝鮮からの年貢を奪った。
物部目は「天皇親操斧鉞授大連曰」「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と巨勢天皇の領地を奪い、その後の配分示して大連麁鹿火を裏切らせ、528年継体天皇二三年「秋九月巨勢男人大臣薨」と男人が薨じて、「廿二年冬十一月・・・遂斬磐井」と磐井を破って、「十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」と葛子にも肥前・筑後の領有を認めて同盟した。
そして継体天皇七年「朕承天緒獲保宗廟・・・宜處春宮」、これは巨勢男人死後に即位した王7年で535年正式に天皇に即位したが、それは、「天皇廿八年歳次甲寅崩・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と534年に巨勢王朝を崩壊させ、安閑天皇二年「置筑紫穗波屯倉鎌屯倉」と飯塚市?・嘉麻市?や「豐國滕碕屯倉 桑原屯倉 肝等屯倉 大拔屯倉 我鹿屯倉」大分県4郡・「火國春日部屯倉」熊本市?・「播磨國越部屯倉 牛鹿屯倉 備後國後城屯倉 多禰屯倉 來履屯倉 葉稚屯倉 河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉 膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉 河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉 近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉 入鹿屯倉 上毛野國緑野屯倉 駿河國稚贄屯倉」と広島・岡山・兵庫・淡路島・和歌山・丹波・近江・尾張・駿河・上毛野の領地を手に入れたということは、これらの土地を巨勢氏は領有若しくは巨勢氏の支持勢力だった。
伊予・播磨は巨勢氏の中心勢力で、巨勢氏が不遇の時「小楯 於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計 弘計」と見出し、顕宗天皇即位前紀「播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯於赤石郡親辨新嘗供物」とお祝いしバックアップしている土地を奪っているのだ。
宣化天皇元年「阿蘇仍君河内國茨田郡屯倉 蘇我大臣稻目宿禰尾張國屯倉 物部大連麁鹿火 新家屯倉 伊賀國屯倉修造官家那津之口 筑紫肥豐三國屯倉 以備卒」と戦勝側の阿蘇君は河内、稻目宿禰は尾張、麁鹿火 新家・伊賀を得て、その一部を「課諸郡分移。聚建那津之口」と難波に治めさせ、「筑紫肥豐三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要」と同盟国の課を免除している。
そして、守屋の配下捕鳥部萬は「物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅」と難波宅、もちろん家ではなく全国から集めた兵糧を補完する宮殿を將百人、兵百人ではなく將百人の人数で守っているのだから、摂津も当然守屋領で、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「平亂之後於攝津國造四天王寺分大連奴半與宅爲大寺奴田庄」と摂津の守屋の宮殿の使用人の半分を四天王寺の使用人にした。
すなわち、安閑二年に奪った領地は守屋の家系の人物が領有したのであり、それが物部目だったということが解り、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「蘇我馬子宿禰等奉炊屋姫尊・・・圍穴穗部皇子宮・・・擧燭而誅・・・而誅大連并其子等」と推古天皇を旗頭に戦い、崇峻天皇まで馬子が記述しているのだから、崇峻天皇紀は馬子にとっては現代史であり、守屋殺害時に「圍穴穗部皇子宮 」と穴穗部の兄弟崇峻天皇も共に殺害された可能性がある。
こうして、物部氏の内部分裂で物部政権が崩壊して、稲目の娘の姫の布都姫・推古天皇が即位して、二代目稲目の子で甥の馬子が大臣、同じく甥の聖徳王・贄古が皇太子となり、629年に秦王国は崩壊し、蘇我倭国が建国された。

2019年1月25日金曜日

最終兵器の聖典 物部帝皇王朝3

 物部目と共に戦った麁鹿火は『先代旧事本紀』「十一世孫物部真掠連公・・・ 伊香井宿祢子(伊莒弗)・・・弟物部布都久留連・・・弟物部目大連公」・「十二世孫物部木蓮子大連公 布都久留大連之子」・「十三世孫物部麻佐良連公 木蓮大連之子」・「十四世孫物部麁鹿大連公 麻佐良大連之子」と 伊莒弗の分家同士で、麁鹿火は天皇の宮について回る官僚で物部目は領地猪名部の王の可能性が高い。
大連は、執筆者の家系蘇我氏を中心に見た物部王朝の天皇の名前であることを念頭にしたもので、「十三世孫・・・弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連」と物部目が継体天皇、そして、安閑・宣化は同一母の兄弟で欽明と母が異なるのだから、「十四世・・・孫物部麁鹿大連公 麻佐良大連之子此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連・・・弟物部押甲連公 此連公檜前盧入宮御宇天皇御世爲大連」と麁鹿が安閑天皇、押甲宣化天皇である。
「孫物部荒山連公 日(目)大連之子此連公檜前廬入宮御宇天皇御世為大連」と荒山も安閑天皇だが、『先代旧事本紀』が虚偽を書く必要が無いので正しいのだろうから、同じ檜前盧入宮で「目」の血統に戻ったのだろう。
「十三世孫物部尾輿連公 荒山大連之子 此連公磯城嶋金剌宮御宇天皇御世為大連・・・弟贄古大連女宮 古郎爲妻」と欽明天皇が尾輿、「十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連之子此連公譯語田宮御宇天皇御世為大連」と敏達天皇が大市御狩、「弟物部守屋大連公子 日弓削大連此連公池身雙槻宮御宇天皇御世爲大連」と用明天皇が守屋である。
「妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と崇峻天皇夫人が御井夫人なのだから、「弟娣生物部石上 贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻・・・小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と御井夫人の夫石上贄古が崇峻天皇になるが推古天皇としている。
これは、贄古が御狩の義父で御狩の子も贄古で敏達天皇となり御井夫人が推古天皇で、贄古の弟の子も石上贄古で推古朝太子聖徳太子となり、「十五世・・・御狩大連之子・・・弟物部目連・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と御狩の子が物部目で欽明天皇と記述しているが、『先代旧事本紀』も推古天皇の項が『日本書紀』と合致させているので2代ズレて用明天皇の可能性がある。
ところが、『先代旧事本紀』推古天皇「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為大臣馬子宿祢見殺」と用明天皇は皇位に就いておらず、崇峻天皇に大連が記述されていないことから、崇峻天皇の大連は守屋と物部目と言うことになり、もしかすると、物部目と守屋は同時に殺害された可能性があり、推古元年が629年の可能性がある。
『日本書紀』敏達天皇元年「以物部弓削守屋大連爲大連」・敏達天皇十二年「天皇詔贄子大連」と2代ズレて崇峻天皇天皇のことを『日本書紀』も証明している。
そして、『日本書紀』崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「蘇我大臣之妻。是物部守屋大連之妹也」と馬子は推古天皇と義兄弟、しかも、推古天皇は御輿と稲目の娘の子、当然、稲目も馬子も襲名するので実際は不明だが父方も母方も義兄弟である。
さらに、「十五世・・・妹物部鎌媛大刀自連公 此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と推古天皇は女系で皇位を継承したことになり、聖徳太子贄古・太子と同等の大臣宗我嶋、天皇鎌媛、皇太后布都姫で、聖徳太子が薨去し、太子の子たちを滅亡させて、宗我嶋が実権を握って豊浦大臣入鹿連が皇位に就いたのである。

2019年1月23日水曜日

最終兵器の聖典 物部帝皇王朝2

 『古事記』を読むと、不思議なことに物部氏の人名が記述されず、『古事記』大倭根子日子国玖琉「娶穂積臣等之祖、内色許男命」と物部氏ではなく穂積氏で、巨勢氏にとっては敵対勢力でしかなかったようだ。
すなわち、『先代旧事本紀』「鬱色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇后」・「伊香色謎・・・輕境原宮御宇天皇御世立為皇妃」・「物部山無媛・・・輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃」も尾張王朝との関係で、葛城王朝にとっては無関係な事柄であったことが解る。
そして、『先代旧事本紀』安康天皇「匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍」・『日本書紀』安康天皇即位前紀「太子自死于大前宿禰之家」と大前宿祢が太子側の中心人物・最高権力者で物部氏は安康天皇によって滅ぼされ、巨勢氏にとっては大連は宿祢で前国王であった。
物部氏は尾張王朝の垂仁天皇から『先代旧事本紀』「弟十市根命 此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫一次為大連・・・而令冶石上神寶盖是其縁也」と物部姓を授けられ、新河が朝廷の家系で大臣、十市根は石上神宮を宮とする領地・十市王(根)となった。
『日本書紀』垂仁天皇二五年 「物部連遠祖十千根」・垂仁天皇二六年「天皇勅物部十千根大連」と 垂仁天皇二六年に皇位を降り、『先代旧事本紀』「物部膽咋宿禰 十市根大連之子 此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢」と大王となり『日本書紀』景行天皇十二年「物部君祖夏花」が物部大王の記事なのだろう。
この、物部大王の大前宿禰に対抗して『日本書紀』履中天皇二年「物部伊莒弗大連」と伊莒弗が安康天皇側について、大前宿禰を滅ぼし、『日本書紀』雄略天皇十八年「遣物部菟代宿禰物部目連・・・天皇聞之怒 輙奪菟代宿禰所有猪名部賜物部目連」と物部目が物部氏の代表となった。
ところが、雄略天皇十八年の時点では大連ではないのに、『日本書紀』雄略天皇即位前紀「以平群臣眞鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連」と即位前期に大連にさせているが、これは、2代ズレて顕宗天皇即位前紀の話で、『先代旧事本紀』「十一世・・・弟物部目大連公 此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋」と清寧天皇に大連と記述している。
物部目は『先代旧事本紀』「十一世孫物部真掠連公 巫部連文嶋連須佐連等祖伊香井宿祢子」と伊莒弗の子で、『先代旧事本紀』「十三世孫・・・木蓮大連之子・・・弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連」・「十五世孫・・・御狩大連之子・・・弟物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と清寧・継体・欽明天皇の大連で欽明天皇の時「物部目連公為大臣」と記述されている。
これは、物部目の家系が猪名部を平群王朝滅亡時に手に入れ、『日本書紀』武烈天皇即位前紀「物部麁鹿火大連女影媛」(古き物部王朝の正統後継者)を巨勢氏の太子と取り合って敵対して勝利して、517年に武烈天皇を追い出して継体元年とした。
継体天皇二一年「筑紫國造磐井陰謨叛逆」の時物部目が継体天皇二一年「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」と、物部目・麁鹿火連合を組んで磐井・巨勢連合と戦い勝利して、継体天皇二二年「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」と活躍した蘇我氏に糟屋・豊を与え、葛子を筑紫國造ではなく筑紫君とし、継体天皇二一年「磐井掩據火豐二國」と火・豊を奪った磐井の領地から、豊と糟屋郡を除いた、現在の福岡市を含む筑後・火の領有を認めた(葛子が巨勢氏を裏切った)。
さらに、継体天皇二五年「百濟本記爲文 其文云・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と天皇や皇太子・皇子を殺戮し、蘇我氏が巨勢氏の残党を匿って、白雉四年「巨勢臣藥 藥豐足臣之子」と豊国王と優遇しているので、巨勢氏内部の裏切りで功績が有ったのだろう。

2019年1月21日月曜日

最終兵器の聖典 物部帝皇王朝1

  『先代旧事本紀』は物部氏の史書であるので、『先代旧事本紀』序文「先代舊事本紀者聖徳太子且所撰」のように書かせたのは聖徳太子だが、この聖徳太子は物部氏の太子である。
推古天皇が書かせた『日本書紀』も敏達天皇五年「其一曰菟道貝鮹皇女 是嫁於東宮聖徳」と記述して、聖徳太子は一人、『日本書紀』は「廐戸皇子 更名豐耳聰 聖徳 或名豐聰耳 法大王 或云法主王」と複数の人物を一人に重ね合わせているが、『先代旧事本紀』の聖徳太子は物部氏の太子ひとりであるから間違えようがない。
『先代旧事本紀』天孫本紀物部十四世「弟娣生 物部石上 贄古連公 此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と石上贄古が聖徳太子の第一候補で、石上贄古の子は「御井夫人爲妻生四兒」と崇峻天皇の夫人を妻にして四兒がいるはずなのに、『先代旧事本紀』に記述されず、全滅した聖徳太子一族とよく符合する。
『先代旧事本紀』推古天皇「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩 卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為 大臣馬子宿祢見殺」と用明天皇は敏達天皇の中に含まれ、石上贄古は御井夫人の甥なのだから、御井夫人を襲名した敏達天皇との娘を石上贄古は妻に、石上贄古はもう一人の『日本書紀』では用明天皇と呼ばれる敏達天皇の子である。
従って、石上贄古が馬子大臣に書かせた『先代旧事本紀』の神武天皇は大彦によって王朝を開くことができたのだが、前回、『日本書紀』継体天皇二四年「大彦申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者」はまさに同じ内容で、継体天皇は物部王朝の中興之功者だと讃えているのである。
そして、「繼體之君」と呼ばれ、『先代旧事本紀』には神武天皇から推古天皇まで記述され、既に『先代旧事本紀』作成時には天皇号が「諡号」され、しかも、本人が即位した時に名乗っていた。
この王号は天皇だけでなく、多くの大王が名乗り、皇太子の石上贄古は聖徳、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后」と筑紫大君は法興、太后は鬼前、王后は干食と呼ばれている。
継体天皇は517年即位で即位24年目の540年に磯城嶋で継体天皇二四年「獲奉宗廟不危社稷」と皇位を完全なものとして、高らかに宣言したが、『先代旧事本紀』天孫本紀物部十三世「物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」と継体天皇の時、物部目が大連で、帝皇本紀 欽明天皇 「元年・・・物部目連公為大臣」と540年に大臣になった。
まさに、物部目が皇太子大臣になったのであり、天孫本紀物部十四世「物部金連公・・・目大連之子」と記述され、皇太子が若くて即位できず、安閑「物部麁鹿大連公・・・勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」、そして宣化は「荒山連公 日大連之子此連公檜前廬入宮御宇天皇御世為大連」が即位し、十五世「物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と目大連の孫が襲名相続した。
天孫本紀物部十五世孫「内大紫位物部雄君連公 守屋大連之子・・・物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と十五世孫「物部大人連公 御狩大連之子此連公物部雄君連公女有利媛爲妻」と雄君が兄弟の目大連女豊媛を娶り、自分の娘が兄弟に嫁いで、すなわち、雄君が守屋の子なら雄君も孫も守屋の宮殿に住む守屋で、守屋は目連の娘婿であり孫であり、難波朝まで雄君の宮は続き、「大紫蘇我連大臣薨」と大紫は大臣に当たる位冠だ。
そして、その守屋が帝皇本紀 用明天皇「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と物部目王朝の最後の皇太子となり、蘇我馬子と聖徳太子に滅ぼされ、敏達天皇に含まれる用明天皇末、帝皇本紀 推古天皇「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と物部目天皇も殺害され秦王国は滅亡した。
『旧唐書』「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」と631年来倭しているので、秦王国から倭に政権交代していることから証明される。

2019年1月18日金曜日

最終兵器の聖典 平群・巨勢王朝・神皇王朝10

 仁賢天皇から『古事記』が記述されないため分析から外れるが、『日本書紀』と『先代旧事本紀』は同一人物が立場を変えて、若しくは同時代に大臣と呼ばれた二人が記述したと考えるられる。
そして、結果として共に2代ズレているが、それは、最終的に世間で受け入れられただけで、『日本書紀』も『先代旧事本紀』も宮を1世代とした紀伝体で記述されて、そこに当てはまるいくつかの大王を当てはめただけで、元明天皇が間違えさせようと朱鳥の元号を入れ込んだ結果である。
従って、武烈・継体天皇の名前が巨勢氏か蘇我氏か不明であるが、継体天皇二四年「降小泊瀬天皇之王天下」と道臣が述べているので、小泊瀬に天皇がいて、皇子の名前としては可能性が高く、「男大迹」も姓が無く「男人」と名も似て、退位した、もちろん殺されたのだろうが、小泊瀬天皇の皇子が 男人を襲名して巨勢氏をまた名乗った。
巨勢氏は白雉四年「學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子」と豊国王で、大化五年「小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣」と蘇我氏の協力者で、小泊瀬天皇の子たちを庇護して葛城王家の筆頭に躍り出たと思われ、『日本書紀』崇峻紀までと『先代旧事本紀』を書き『古事記』を完成させた蘇我氏は「男大迹」まで残したのだろうか。
継体天皇二四年「大彦申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者」と道臣が持ち上げ、「 朕承帝業於今廿四年」と「繼體之君」が述べているが、この「繼體之君」が即位したのが507年では有り得ない。
なぜなら、この「繼體之君」は継体年号を517年に建元しているのであるから、「繼體之君」は繼體天皇と呼ばれていたと考えるべきで、繼體天皇が即位したから継体年号建元と考えるのが筋だ。
もし、「繼體之君」がすでに即位していたら、継体年号以前の元号が残っているはずで、繼體天皇と呼ばれているのに元号名が思いつかないから「継体」にするなどというのは、繼體天皇を冒涜している。
したがって、繼體天皇は517年即位で540年に欽明天皇元年「遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮」と遷都した時の祝賀で544年まで継体天皇二五年「或本云天皇廿八年歳次甲寅崩」と存命で、516年継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨」が巨勢王朝の終焉だ。
継体天皇二五年「又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」の記事が516年記事か継体天皇二四年「降小泊瀬天皇之王天下」と降伏した小泊瀬天皇が518年のことか531年のことか不明だが、531年まで巨勢王朝の宮が続いているので531年の可能性が高い。
そして、継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨」が516年ならこの王朝の天皇は594年即位となって、『梁書』「名國王爲乙祁」で乙祁天皇ということが証明され、長男が13歳に達していないため、実質皇太子になったのが巨勢男人大臣、そして、507年長男が13歳になったので、天皇と同等の皇太子で巨勢男人も皇太子小泊瀬も大王である。
『先代旧事本紀』「神皇王朝」と呼ぶ武内宿禰の王朝は初めて史書を作成し、大国王・中国王・若国王・品陀和気・大雀・伊耶本和気王そして尾張王朝の天皇水歯別を順に並べた紀伝体の史書を作成したが、それは、互いに重なり合う事績が記述され、それぞれの王は宿禰と呼ばれた。
若国王武内宿禰はもちろん、長男襲名で何代も続き、それらの王の子どもは二代目も三代目も幾代目も全て兄弟で、その中に襲津彦・紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰がいて、これらも長男が襲名相続する。
その、武内宿禰の氏族が争奪戦で皇位を奪取しあったのが『先代旧事本紀』「神皇王朝」、そして、『梁書』が言う「扶桑国」である。

2019年1月16日水曜日

最終兵器の聖典 平群・巨勢王朝・神皇王朝9

 『古事記』大雀「大江之伊耶本和気・・・為太子伊耶本和気」と尾張氏に宮の大江にいる圓に皇位を奪われ、伊耶本和気「娶葛城之曽都比古之子葦田宿祢之女名黒比売命生御子市辺之忍歯王」と市辺之忍歯が生まれ、その子が穴穂「市辺王之王子等意祁王・袁祁王」と 意祁王・袁祁王だ。
『梁書』「齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と499年に乙祁が天皇なのだから、百歳近いお化けになってしまい、当然、市辺之忍歯が殺害されたのは470年頃で、「大長谷若建」が市辺之忍歯の役職名で、さらに、「白髪大倭根子」と大倭宿祢の部下になった。
武内宿祢の大后の子たち大雀「大后 生御子、大江之伊耶本和気命 次、墨江之中津王 次、蝮之水歯別命 次、男浅津間若子宿祢命」の水歯別は葛城氏、男浅津間若子宿祢は平群氏、 墨江之中津王は伊耶本和気に殺害され、残った伊耶本和気は武内宿祢の子孫で大臣になった巨勢氏しか残っていない。
大倭根子日子国玖琉「許勢小柄宿祢者許勢臣・雀部臣・軽部臣之祖也」と『古事記』に記述されるが、『日本書紀』天武天皇十三年「雀部臣・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」に雀部臣が出現するが、始祖説話も無く軽部臣は一度も出現しない。
これは、男浅津間若子宿祢「為木梨之軽太子御名代、定軽部」と軽太子の子に与えられるはずが失脚し、後に巨勢氏の子に与えたが王朝壊滅時に消滅した為残らず、雀部は残ったが、馬子が記述しなかったと思われる。
実際に、結果として継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨。」と巨勢男人大臣が薨去した時、継体天皇二三年に薨去となっているが、継体天皇二五年「天皇廿八年歳次甲寅崩」と本来継体天皇は28年在位していて、その三年前なので継体天皇二三年の薨去は継体天皇二五年になり、継体天皇二五年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と日本の天皇と太子や皇子が崩薨していることから分かる。
そして、『日本書紀』は2代ずれているので、『日本書紀』の継体天皇は『古事記』の宣化天皇で、継体25年に崩薨し『古事記』の天皇は「意祁王」で皇太子が巨勢男人大臣で、小長谷若雀「無可知日続之王」と日続之王を知ることができないと述べ、生き残った王がいて、白雉四年「學生巨勢臣藥藥豐足臣之子」と豐国を治めている。
『日本書紀』の「雄略天皇」は雄略天皇二年「百濟新撰云己巳年葢鹵王立」と454年即位の王の雄略天皇で、雄略天皇五年「筑紫各羅嶋産兒・・・是爲武寧王」は477年即位の雄略天皇で複数の雄略天皇がいて、461年武寧王誕生なら死亡61歳で子の聖王の死亡が70歳以上となってしまうが、483年生まれなら死亡41歳で聖王の死亡が51歳で次の威德王が長寿だったので次の恵王の在位期間が短くなり、ちなみに、法王が短命だったため次の武王の在位期間が長い。
そして。もう一人の雄略天皇二三年「百濟文斤王薨。」の457年即位の宮の年数で雄略天皇即位前紀「縱火燔宅」と圓大臣宅を焼き、「設壇於泊瀬朝倉即天皇位」と泊瀬朝倉治天下天皇の誕生である。
古事記を書いた巨勢氏の役職名が、初代の泊瀬の若国出身の武将と役職どおり雄略天皇に仕えた磐坂市邊押羽皇子が、「即射殺市邊押磐皇子」と殺されその長男は「白髪大倭根子」と『古事記』白髪大倭根子「忍海郎女亦名飯豊王坐葛城忍海之高木角刺宮」と白髪という大倭の領地『日本書紀』顕宗天皇即位前紀「亦名忍海部女王」と葛城の忍海の女王になり、押磐皇子の名の通り伊和大神を祀る播磨を領有し、その子たちが清寧天皇二年「播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯於赤石郡縮見屯倉」・顕宗天皇即位前紀「縮見屯倉首忍海部造細目也」と播磨の明石に逃げていた。
このように、巨勢王朝の成り立ちの年代と明石に潜伏した背景が説明できた。

2019年1月14日月曜日

最終兵器の聖典 平群・巨勢王朝・神皇王朝8

 安康天皇元年「圍大草香皇子之家而殺之」と中蒂姫(中国王)の夫を殺害した454年の3年後『古事記』「其大后之先子目弱王是年七歳」で目弱王は450年生まれ、父大草香が允恭天皇元年412年に皇位を争った人物では有り得ず、安康天皇元年「大草香皇子之妻中蒂姫」と中国王に婿入りした王と考えられる。
雄略天皇即位前紀「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女更名長田大娘皇女也」としているが、履中天皇紀には一言も記述されず、『古事記』男浅津間若子宿祢王「忍坂之大中津比売・・・次、長田大郎女。」・穴穂御子「殺大日下王而取持来其王之嫡妻長田大郎女為皇后」と2代ずれているが、忍坂之大中津比売と忍坂に住む中(なか)国の姫で中国王である。
そして、その中国王の皇子が雄略天皇即位前紀「坂合黒彦皇子深恐所疑竊語眉輪王遂共得間而出逃入圓大臣宅」・「大臣與黒彦皇子眉輪王倶被燔死」と中国王と日向襲津彦の孫との子の眉輪王を葛城襲津彦の分家が守り、中国王の兄弟で葛城襲津彦の本家雄略天皇が政権を取ったように書いている。
長田大娘が後ろへ『日本書紀』が後ろへ2代ずれたように、『日本書紀』には武烈天皇即位前紀「戮鮪臣於乃樂山」と仁賢天皇末に記述されるのに対し、『古事記』には白髪大倭根子「意祁命・袁祁命二柱議云・・・即興軍囲志毘臣家乃殺也」と清寧天皇末と2代後ろにずれている。
これは、推古天皇が雄略天皇から2代後ろに当てはめた結果で、仁賢天皇が書いた『古事記』と馬子が書いた『日本書紀』では『古事記』が先に書かれたので『古事記』に軍配が上がり『古事記』を優先させなければならず、天皇名も「大長谷若建」から「意祁」までは「意祁」の王名である。
そうすると、「男浅津間若子宿祢」は葛城氏ではなく、「穴穂」の義弟のどこかの領域の王で、「水歯別」が天皇になり、それ以降「水歯別」の長男相続があり、「穴穂」の義弟が天皇になり、『古事記』白髪大倭根子「凡朝庭人等者旦参赴於朝庭昼集於志毘門亦今者志毘必寝亦其門無人」と志毘の館が朝庭で志毘が天皇である。
そして、清寧天皇元年「平群眞鳥大臣爲大臣」・雄略天皇即位前紀「以平群臣眞鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連」は安康天皇元年や允恭天皇の時のことで安康天皇の皇位太子に眞鳥が就き、雄略天皇は眞鳥だったことを意味し、雄略天皇は平群王朝だったことがわかり、清寧天皇即位前紀「大伴室屋大連率臣連等奉璽於皇太子」は安康天皇の即位のことである。
すると、正統な後継者は中帯姫で、日向襲津彦が葛城氏政権で、雄略天皇側が『日本書紀』を記述したのだから、平群氏の系図を当てはめたわけで、允恭天皇は大草香で眉輪王が小さいため中帯姫が皇位を継いで、圓が皇太子大臣で、眉輪王と圓を殺害して雄略天皇元年「立草香幡梭姫皇女爲皇后」と大草香の妹に婿入りした大草香の義弟の平群眞鳥が新しい皇太子大臣となった。
さらに、雄略天皇の子清寧天皇すなわち「志毘」は『古事記』白髪大倭根子で、「市辺忍歯別王之妹忍海郎女亦名飯豊王」と飯豊王の兄の子見つかり、「其姨飯豊王聞歓而令上於宮」と喜んだと書かれているが、天皇が喜んだとは書かれていない。
そして、「志毘」が「袁祁命将婚之美人手 其娘子者 兎田首等之女名大魚」とあるように、大魚を取り合って、「今者志毘必寝亦其門無人」と「志毘」が恋に現を抜かす間に、「故非今者難可謀即興軍囲志毘臣家乃殺也」と政権を奪ったのであり、袁祁命「少掘其陵辺」どころか、その子を殺し、即位後も、その父の死んだ眞鳥を恨んでいたのである。

2019年1月11日金曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝7

 前回、大帯日子も若帯日子も帯中日子も息長帯日売も品陀和気も大雀も全て同時代の王と述べ、大帯日子は20年程度早いとしたが、大帯日子は游斯呂和気と一段低い役職名で、それが仁徳天皇即位前紀「出雲臣之祖淤宇宿禰曰」と後に出雲臣の祖大宿祢(大帯日子)になっていることから解かる。
そして、その他の王たちは当然、『古事記』「波多八代宿祢者 許勢小柄宿祢者 蘇賀石河宿祢  平群都久宿祢者 木角宿祢者 久米能摩伊刀比売 怒能伊呂比売 葛城長江曽都毘古 若子宿祢」の子供たちで、大帯日子が瀬戸内周辺を自領にして大君品陀和気、皇太子は恐らく武内大臣だ。
葛城襲津彦の娘婿大雀と正統な後継者大山守が争い、「大中彦皇子將掌倭屯田及屯倉」と主張し、淤宇宿禰も「其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰是屯田者自本山守地」と言われたと述べ、結果、大山守が敗北して淤宇宿禰が大山守の領地を任され出雲臣となり、「倭屯田及屯倉」は葛城氏の領有となり、日向襲津彦の子は日向襲津彦と葛城襲津彦が同一人物か解らない。
応神天皇十三年「日向諸縣君牛仕于朝庭  年既耆耈之不能仕 」と日向氏が朝廷に仕えていて、大山守の元領地「倭屯田及屯倉」を支配する大雀の配下諸縣君を尾張朝廷に出仕させていたと考えられる。
このように、瀬戸内周辺を武内宿祢の子たちが分割統治したため、日向・吉備・和泉などで大きな陵を競い合い、それが、大和に遠い宮崎県に大きな古墳がある原因で、代々の日向襲津彦の陵なのだろう。
そして、大雀事態も複数の大雀が存在し、その皇子も実際の親は不明で、少なくとも『古事記』大雀「大后生御子、大江之伊耶本和気命。・・・男浅津間若子宿祢命」と記述して伊耶本和気のみ『日本書紀』仁徳天皇二年「后生大兄去來穗別天皇」と意味が全く異なる。
『古事記』の伊耶本和気は地名の大江で、『古事記』帯中日子「娶大江王之女、大中津比売命、生御子、香坂王・忍熊王」と大江は尾張氏の皇子が生まれた土地で、伊耶本和気は尾張王朝の婿になった。
そして、王朝内で仲皇子と内紛を起こし、伊耶本和気側に「平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主」がついて勝利を治め、履中天皇二年「圓大使主」と事実上の皇太子となり、仁徳天皇元年「都難波是謂高津宮」から履中天皇元年「皇太子即位於磐余稚櫻宮」と葛城氏の地元に遷し、「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」と葛城氏の姫が皇后となって、葛城氏を背景とした尾張氏王朝になった。
最高権力者の圓大使主は403年に履中天皇四年「始之於諸國置國史記言事達四方志」と史書作成を命じたが、自分の文字知識が弱いことを知り、応神天皇十六年「習諸典籍於王仁」・『古事記』品陀和気「論語十巻千字文一巻并十一巻付是人即貢進」と教養を増やすため論語を405年に取り寄せ文字の教養を深めた。
そして、領主日向諸縣君牛の孫大草香皇子は妻中蒂姫と中(なか)国王で、その大草香と領地大和葛城襲津彦の孫との主導権争いで圓が勝利して、允恭天皇即位前紀「即選吉日、跪上天皇之璽・・・即日捧天皇之璽符再拜上焉・・・乃即帝位」と天皇に即位し、『先代旧事本紀』十三世孫尾綱根「品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連」と尾張氏は尾張連の姓を持って臣下となり、やはり「大江」に住んでいる。
すなわち、410年に葛城王朝が発足して、尾張氏の朝廷への復帰は絶たれ、所謂縄文人の家系が天皇家から排除され、あとは安芸から熊野に天降った葛城氏、大国から鵄邑に天降った物部氏、大国から高千穂に天降した現天皇家が残った。

2019年1月9日水曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝6

 前回は321年即位の神功皇后を述べたが、応神天皇は390年即位と396年即位の応神天皇が存在する。
応神天皇三年「遣紀角宿禰羽田矢代宿禰石川宿禰木菟宿禰嘖譲其无禮状由是百濟國殺辰斯王以謝之紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」は392年で武内宿祢の子たちが辰斯王を殺し、阿花王が即位しているので、この390年即位の応神天皇は武内宿祢のようだ。
応神天皇十六年「百濟阿花王薨」で405年と390年即位だが、応神天皇二五年「百濟直支王薨」は420年で396年即位となり、これは「百濟記云木滿致者是木羅斤資討新羅時娶其國婦而所生也」と百濟記の資料で割り当てている。
百濟記が異なる王を記述して、それを雄略天皇が割り当てたが、百濟記に絶対年代が解る記述が無く百濟記が書いた王を応神天皇と在位年数をそのまま割り当てた結果で、応神天皇「卅九年春二月百濟直支王遣其妹新齊都媛以令任」が428年でも434年でも420年に薨じた直支王が命令できないことから解かる。
直支王の在位期間の405年から419年の間に39年目を迎えた王は尾張王朝の難波宮で、葛城王朝に崩壊させられた最後の王で尾治弟彦の父尾綱根を襲名していた最後の王だと思われる。
仁徳天皇四一年「遣紀角宿禰於百濟・・・訶責百濟王時百濟王懼之・・・附襲津彦而進上」は応神天皇十六年「率弓月之人夫與襲津彦共來焉」の405年記事と新羅・百済の違いがあるが同時期の記事に思われ、応神天皇十六年「遣平群木菟宿禰的戸田宿禰於加羅仍授精兵詔之曰襲津彦久之不還」と仁徳天皇十二年「饗高麗客於朝・・・明日美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰」と仁徳天皇十二年に名を賜った的戸田宿禰が それより前の応神天皇十六年に宿禰を名乗っている。
すなわち、405年が仁徳四一年なら39年は403年で直支王は王と呼ばれる存在であり、2代目仁徳天皇なら405から419年に入る可能性があり、当然、紀角宿禰が最前線で活躍しているのであるから武内宿祢の世代が大王の時代で390年に即位した応神天皇であることが解る。
武内宿禰は景行天皇三年「紀直遠祖菟道彦之女影媛生武内宿禰。」・景行天皇二五年「遣武内宿禰令察北陸」・景行天皇五一年「是日命武内宿禰爲棟梁之臣」・成務天皇三年「以武内宿禰爲大臣也」・仲哀天皇九年「是皇后及大臣武内宿禰匿天皇之喪」・神功皇后摂政元年「命武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」・神功皇后摂政五十一年「百濟王亦遣久氐朝貢於是皇太后語太子及武内宿禰曰」・応神天皇七年「時命武内宿禰領諸韓人等作池」・仁徳天皇五十年「天皇於是歌以問武内宿禰曰」と出現する。
そして、允恭天皇五年「因以逃隱武内宿禰之墓域」と武内宿禰は薨じた後でおそらく反正天皇元年「當是時風雨順時五穀成熟人民富饒天下太平」と武内宿禰の政治を褒めたたえ、反正天皇五年「天皇崩干正寢」と眠るように410年に崩御した王を讃え、この王が葛城王朝を打ち立てたと思われるが、更に次代の武内大臣と思われる、応神天皇二五年「百濟直支王薨」の420年の葛城王がいる。
すなわち、大帯日子も若帯日子も帯中日子も息長帯日売も品陀和気も大雀も全て同時代の王だったことがわかり、古事記に書かれない、武内宿禰の家系に関係ない事柄は尾張王朝の記事で、それ以外は葛城王朝の記事であったことが解る。
このことは『古事記』も同様で、しかも、仁徳紀が87年、神功紀が69年、成務・景行紀が60年の在位期間にもかかわらず全て51年までしか出現せず、景行紀で誕生しているのだから大帯日子の治世中の事と解り、それぞれの王に関する事柄がそれぞれの王に記述され、若帯日子や息長帯日売の治世は大帯日子より20年以上後に始まったのであり、神功皇后摂政五五年「百濟肖古王薨」となる321年が初代武内宿禰誕生なのではないだろうか。

2019年1月7日月曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝5

 前回、396年に即位した応神天皇葛城襲津彦を書いたが、同じことは『三国史記』にも当てはまり、「阿達羅尼師今」173年「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」の卑弥呼が同じなら卑弥呼はお化けで、実際は「奈解尼師今」二十年で215年の可能性が高く、当てはめ間違いを起こしている。
そして、「祇摩尼師今」「九年 夏四月 倭人侵東邊」「十一年・・・ 夏四月・・・倭兵大來爭遁山谷 王命伊飡 翌宗等諭止之」「十二年 春三月 與倭國講和」の記事も「婆娑尼師今」9・11・12年で、『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「到新羅。時隨船潮浪達逮國中。即知。天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗」・「新羅王・・・吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也」・「爰新羅王波沙寐錦。即以微叱己知波珍干岐爲質。仍齎金銀彩色及綾羅縑絹。載于八十艘船。令從官軍」・「從今以後。永稱西蕃。不絶朝貢。故因以定内官家」と神国日本に助けを求めて、新羅王波沙寐錦が人質を差し出し講和している。
「波沙寐錦」は「婆娑尼師今」のことで、西暦92から95年に「大臣武内宿禰自穴門還之」と穴門にいた王者は仲哀天皇二年「天皇於是將討熊襲國。則自徳勒津發之。浮海而幸穴門」と熊襲征伐した中国周防の王者は「帯中日子」で熊襲を征伐した「帯中日子」は『後漢書』「桓・靈閒 倭國大亂」と国内がまとまらない倭国とともに新羅を攻めた。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「到新羅・・・天神地祇悉助歟」と新羅内で天神地祇の助けは『後漢書』「馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神,號為天君」と合致し、新羅国内に倭を助ける勢力があったことが解り、さらに、神功皇后摂政四六年「百濟王聞東方有日本貴國」初めてお目見えしたように記述して、尾張王朝への挨拶で倭国に対してではない。
神功皇后摂政五十二年「久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口」は『石上神宮伝世の七支刀』と考えられ、「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」と銘があり、 西晋の「泰始四年」(268年) 東晋の「太和四年」(369年) 劉宋の「泰始四年」(468年)の説があるが、私は、泰■四年は日本の年号で旧暦372年七月十六日と考えている。
十■の■は七の下棒線が消えたもので、この日は丙午にあたり、468年は近肖古王の時代で孫の枕流王に皇子阿莘王が生まれたお祝いの刀を送ったと思われ、枕流王は385年に崩じ、皇太子は「六十五年。百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。」とまだ13歳で若いため、枕流王の弟辰斯王が即位し、阿莘王が392年20歳で即位している。
これは、321年即位の神功皇后がいて、その52年目で、「五十五年。百濟肖古王薨」は375年、「六十四年。百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。」は384年と裏付けていて、久氐や襲津彦の記事は321年即位の神功皇后の年表で考えなければならず、「晋武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重貢獻。」などは雄略時代に『三国志』を読み割り振った記事で年代感覚は間違っていない。
神功皇后摂政四六年「時百濟肖古王深之歡喜而厚遇焉・・・」は366年でまさに肖古王が百済王で、神功皇后摂政四九年「撃新羅而破之因以平定比自㶱(昌寧郡)南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」は『三国志』「北岸狗邪韓國」、崇神天皇六五年「任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也」とも異なる『宋書』「渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿」のことで、応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と葛城王朝に帰順した倭国が、王朝の代表として述べた言葉である。
尾張王朝の国名は「百濟王聞東方有日本貴國」と日本なので、「七枝刀」は369年に倭王に送られたが、尾張王朝の年号が書かれていることもあって倭王が尾張王朝に献上したか、王朝が召し上げた。