2019年1月28日月曜日

最終兵器の聖典 物部帝皇王朝4

 『日本書紀』継体十七年「夏五月 百濟國王武寧薨」と、ある王の17年が522年の王、もちろん、おそらく男人で、継体天皇元年「爲宗廟社稷計不敢忽」と即位したが、まとめきれず、517年「十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國」に物部目が弟国で『隋書』「秦王国」を建国して継体帝を名乗り、九州では磐井が継体天皇二一年「筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・磐井掩據火豐二國・・・外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」と火・豊国を侵略して朝鮮からの年貢を奪った。
物部目は「天皇親操斧鉞授大連曰」「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と巨勢天皇の領地を奪い、その後の配分示して大連麁鹿火を裏切らせ、528年継体天皇二三年「秋九月巨勢男人大臣薨」と男人が薨じて、「廿二年冬十一月・・・遂斬磐井」と磐井を破って、「十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」と葛子にも肥前・筑後の領有を認めて同盟した。
そして継体天皇七年「朕承天緒獲保宗廟・・・宜處春宮」、これは巨勢男人死後に即位した王7年で535年正式に天皇に即位したが、それは、「天皇廿八年歳次甲寅崩・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と534年に巨勢王朝を崩壊させ、安閑天皇二年「置筑紫穗波屯倉鎌屯倉」と飯塚市?・嘉麻市?や「豐國滕碕屯倉 桑原屯倉 肝等屯倉 大拔屯倉 我鹿屯倉」大分県4郡・「火國春日部屯倉」熊本市?・「播磨國越部屯倉 牛鹿屯倉 備後國後城屯倉 多禰屯倉 來履屯倉 葉稚屯倉 河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉 膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉 河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉 近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉 入鹿屯倉 上毛野國緑野屯倉 駿河國稚贄屯倉」と広島・岡山・兵庫・淡路島・和歌山・丹波・近江・尾張・駿河・上毛野の領地を手に入れたということは、これらの土地を巨勢氏は領有若しくは巨勢氏の支持勢力だった。
伊予・播磨は巨勢氏の中心勢力で、巨勢氏が不遇の時「小楯 於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計 弘計」と見出し、顕宗天皇即位前紀「播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯於赤石郡親辨新嘗供物」とお祝いしバックアップしている土地を奪っているのだ。
宣化天皇元年「阿蘇仍君河内國茨田郡屯倉 蘇我大臣稻目宿禰尾張國屯倉 物部大連麁鹿火 新家屯倉 伊賀國屯倉修造官家那津之口 筑紫肥豐三國屯倉 以備卒」と戦勝側の阿蘇君は河内、稻目宿禰は尾張、麁鹿火 新家・伊賀を得て、その一部を「課諸郡分移。聚建那津之口」と難波に治めさせ、「筑紫肥豐三國屯倉 散在縣隔 運輸遥阻 儻如須要」と同盟国の課を免除している。
そして、守屋の配下捕鳥部萬は「物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅」と難波宅、もちろん家ではなく全国から集めた兵糧を補完する宮殿を將百人、兵百人ではなく將百人の人数で守っているのだから、摂津も当然守屋領で、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「平亂之後於攝津國造四天王寺分大連奴半與宅爲大寺奴田庄」と摂津の守屋の宮殿の使用人の半分を四天王寺の使用人にした。
すなわち、安閑二年に奪った領地は守屋の家系の人物が領有したのであり、それが物部目だったということが解り、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「蘇我馬子宿禰等奉炊屋姫尊・・・圍穴穗部皇子宮・・・擧燭而誅・・・而誅大連并其子等」と推古天皇を旗頭に戦い、崇峻天皇まで馬子が記述しているのだから、崇峻天皇紀は馬子にとっては現代史であり、守屋殺害時に「圍穴穗部皇子宮 」と穴穗部の兄弟崇峻天皇も共に殺害された可能性がある。
こうして、物部氏の内部分裂で物部政権が崩壊して、稲目の娘の姫の布都姫・推古天皇が即位して、二代目稲目の子で甥の馬子が大臣、同じく甥の聖徳王・贄古が皇太子となり、629年に秦王国は崩壊し、蘇我倭国が建国された。

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