前回、大帯日子も若帯日子も帯中日子も息長帯日売も品陀和気も大雀も全て同時代の王と述べ、大帯日子は20年程度早いとしたが、大帯日子は游斯呂和気と一段低い役職名で、それが仁徳天皇即位前紀「出雲臣之祖淤宇宿禰曰」と後に出雲臣の祖大宿祢(大帯日子)になっていることから解かる。
そして、その他の王たちは当然、『古事記』「波多八代宿祢者 許勢小柄宿祢者 蘇賀石河宿祢 平群都久宿祢者 木角宿祢者 久米能摩伊刀比売 怒能伊呂比売 葛城長江曽都毘古 若子宿祢」の子供たちで、大帯日子が瀬戸内周辺を自領にして大君品陀和気、皇太子は恐らく武内大臣だ。
葛城襲津彦の娘婿大雀と正統な後継者大山守が争い、「大中彦皇子將掌倭屯田及屯倉」と主張し、淤宇宿禰も「其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰是屯田者自本山守地」と言われたと述べ、結果、大山守が敗北して淤宇宿禰が大山守の領地を任され出雲臣となり、「倭屯田及屯倉」は葛城氏の領有となり、日向襲津彦の子は日向襲津彦と葛城襲津彦が同一人物か解らない。
応神天皇十三年「日向諸縣君牛仕于朝庭
年既耆耈之不能仕
」と日向氏が朝廷に仕えていて、大山守の元領地「倭屯田及屯倉」を支配する大雀の配下諸縣君を尾張朝廷に出仕させていたと考えられる。
このように、瀬戸内周辺を武内宿祢の子たちが分割統治したため、日向・吉備・和泉などで大きな陵を競い合い、それが、大和に遠い宮崎県に大きな古墳がある原因で、代々の日向襲津彦の陵なのだろう。
そして、大雀事態も複数の大雀が存在し、その皇子も実際の親は不明で、少なくとも『古事記』大雀「大后生御子、大江之伊耶本和気命。・・・男浅津間若子宿祢命」と記述して伊耶本和気のみ『日本書紀』仁徳天皇二年「后生大兄去來穗別天皇」と意味が全く異なる。
『古事記』の伊耶本和気は地名の大江で、『古事記』帯中日子「娶大江王之女、大中津比売命、生御子、香坂王・忍熊王」と大江は尾張氏の皇子が生まれた土地で、伊耶本和気は尾張王朝の婿になった。
そして、王朝内で仲皇子と内紛を起こし、伊耶本和気側に「平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主」がついて勝利を治め、履中天皇二年「圓大使主」と事実上の皇太子となり、仁徳天皇元年「都難波是謂高津宮」から履中天皇元年「皇太子即位於磐余稚櫻宮」と葛城氏の地元に遷し、「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」と葛城氏の姫が皇后となって、葛城氏を背景とした尾張氏王朝になった。
最高権力者の圓大使主は403年に履中天皇四年「始之於諸國置國史記言事達四方志」と史書作成を命じたが、自分の文字知識が弱いことを知り、応神天皇十六年「習諸典籍於王仁」・『古事記』品陀和気「論語十巻千字文一巻并十一巻付是人即貢進」と教養を増やすため論語を405年に取り寄せ文字の教養を深めた。
そして、領主日向諸縣君牛の孫大草香皇子は妻中蒂姫と中(なか)国王で、その大草香と領地大和葛城襲津彦の孫との主導権争いで圓が勝利して、允恭天皇即位前紀「即選吉日、跪上天皇之璽・・・即日捧天皇之璽符再拜上焉・・・乃即帝位」と天皇に即位し、『先代旧事本紀』十三世孫尾綱根「品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連」と尾張氏は尾張連の姓を持って臣下となり、やはり「大江」に住んでいる。
すなわち、410年に葛城王朝が発足して、尾張氏の朝廷への復帰は絶たれ、所謂縄文人の家系が天皇家から排除され、あとは安芸から熊野に天降った葛城氏、大国から鵄邑に天降った物部氏、大国から高千穂に天降した現天皇家が残った。
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