『古事記』を読むと、不思議なことに物部氏の人名が記述されず、『古事記』大倭根子日子国玖琉「娶穂積臣等之祖、内色許男命」と物部氏ではなく穂積氏で、巨勢氏にとっては敵対勢力でしかなかったようだ。
すなわち、『先代旧事本紀』「鬱色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇后」・「伊香色謎・・・輕境原宮御宇天皇御世立為皇妃」・「物部山無媛・・・輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃」も尾張王朝との関係で、葛城王朝にとっては無関係な事柄であったことが解る。
そして、『先代旧事本紀』安康天皇「匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍」・『日本書紀』安康天皇即位前紀「太子自死于大前宿禰之家」と大前宿祢が太子側の中心人物・最高権力者で物部氏は安康天皇によって滅ぼされ、巨勢氏にとっては大連は宿祢で前国王であった。
物部氏は尾張王朝の垂仁天皇から『先代旧事本紀』「弟十市根命 此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫一次為大連・・・而令冶石上神寶盖是其縁也」と物部姓を授けられ、新河が朝廷の家系で大臣、十市根は石上神宮を宮とする領地・十市王(根)となった。
『日本書紀』垂仁天皇二五年
「物部連遠祖十千根」・垂仁天皇二六年「天皇勅物部十千根大連」と
垂仁天皇二六年に皇位を降り、『先代旧事本紀』「物部膽咋宿禰 十市根大連之子 此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢」と大王となり『日本書紀』景行天皇十二年「物部君祖夏花」が物部大王の記事なのだろう。
この、物部大王の大前宿禰に対抗して『日本書紀』履中天皇二年「物部伊莒弗大連」と伊莒弗が安康天皇側について、大前宿禰を滅ぼし、『日本書紀』雄略天皇十八年「遣物部菟代宿禰物部目連・・・天皇聞之怒 輙奪菟代宿禰所有猪名部賜物部目連」と物部目が物部氏の代表となった。
ところが、雄略天皇十八年の時点では大連ではないのに、『日本書紀』雄略天皇即位前紀「以平群臣眞鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連」と即位前期に大連にさせているが、これは、2代ズレて顕宗天皇即位前紀の話で、『先代旧事本紀』「十一世・・・弟物部目大連公 此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋」と清寧天皇に大連と記述している。
物部目は『先代旧事本紀』「十一世孫物部真掠連公 巫部連文嶋連須佐連等祖伊香井宿祢子」と伊莒弗の子で、『先代旧事本紀』「十三世孫・・・木蓮大連之子・・・弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連」・「十五世孫・・・御狩大連之子・・・弟物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と清寧・継体・欽明天皇の大連で欽明天皇の時「物部目連公為大臣」と記述されている。
これは、物部目の家系が猪名部を平群王朝滅亡時に手に入れ、『日本書紀』武烈天皇即位前紀「物部麁鹿火大連女影媛」(古き物部王朝の正統後継者)を巨勢氏の太子と取り合って敵対して勝利して、517年に武烈天皇を追い出して継体元年とした。
継体天皇二一年「筑紫國造磐井陰謨叛逆」の時物部目が継体天皇二一年「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」と、物部目・麁鹿火連合を組んで磐井・巨勢連合と戦い勝利して、継体天皇二二年「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」と活躍した蘇我氏に糟屋・豊を与え、葛子を筑紫國造ではなく筑紫君とし、継体天皇二一年「磐井掩據火豐二國」と火・豊を奪った磐井の領地から、豊と糟屋郡を除いた、現在の福岡市を含む筑後・火の領有を認めた(葛子が巨勢氏を裏切った)。
さらに、継体天皇二五年「百濟本記爲文 其文云・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と天皇や皇太子・皇子を殺戮し、蘇我氏が巨勢氏の残党を匿って、白雉四年「巨勢臣藥 藥豐足臣之子」と豊国王と優遇しているので、巨勢氏内部の裏切りで功績が有ったのだろう。
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