2019年1月16日水曜日

最終兵器の聖典 平群・巨勢王朝・神皇王朝9

 『古事記』大雀「大江之伊耶本和気・・・為太子伊耶本和気」と尾張氏に宮の大江にいる圓に皇位を奪われ、伊耶本和気「娶葛城之曽都比古之子葦田宿祢之女名黒比売命生御子市辺之忍歯王」と市辺之忍歯が生まれ、その子が穴穂「市辺王之王子等意祁王・袁祁王」と 意祁王・袁祁王だ。
『梁書』「齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と499年に乙祁が天皇なのだから、百歳近いお化けになってしまい、当然、市辺之忍歯が殺害されたのは470年頃で、「大長谷若建」が市辺之忍歯の役職名で、さらに、「白髪大倭根子」と大倭宿祢の部下になった。
武内宿祢の大后の子たち大雀「大后 生御子、大江之伊耶本和気命 次、墨江之中津王 次、蝮之水歯別命 次、男浅津間若子宿祢命」の水歯別は葛城氏、男浅津間若子宿祢は平群氏、 墨江之中津王は伊耶本和気に殺害され、残った伊耶本和気は武内宿祢の子孫で大臣になった巨勢氏しか残っていない。
大倭根子日子国玖琉「許勢小柄宿祢者許勢臣・雀部臣・軽部臣之祖也」と『古事記』に記述されるが、『日本書紀』天武天皇十三年「雀部臣・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」に雀部臣が出現するが、始祖説話も無く軽部臣は一度も出現しない。
これは、男浅津間若子宿祢「為木梨之軽太子御名代、定軽部」と軽太子の子に与えられるはずが失脚し、後に巨勢氏の子に与えたが王朝壊滅時に消滅した為残らず、雀部は残ったが、馬子が記述しなかったと思われる。
実際に、結果として継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨。」と巨勢男人大臣が薨去した時、継体天皇二三年に薨去となっているが、継体天皇二五年「天皇廿八年歳次甲寅崩」と本来継体天皇は28年在位していて、その三年前なので継体天皇二三年の薨去は継体天皇二五年になり、継体天皇二五年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と日本の天皇と太子や皇子が崩薨していることから分かる。
そして、『日本書紀』は2代ずれているので、『日本書紀』の継体天皇は『古事記』の宣化天皇で、継体25年に崩薨し『古事記』の天皇は「意祁王」で皇太子が巨勢男人大臣で、小長谷若雀「無可知日続之王」と日続之王を知ることができないと述べ、生き残った王がいて、白雉四年「學生巨勢臣藥藥豐足臣之子」と豐国を治めている。
『日本書紀』の「雄略天皇」は雄略天皇二年「百濟新撰云己巳年葢鹵王立」と454年即位の王の雄略天皇で、雄略天皇五年「筑紫各羅嶋産兒・・・是爲武寧王」は477年即位の雄略天皇で複数の雄略天皇がいて、461年武寧王誕生なら死亡61歳で子の聖王の死亡が70歳以上となってしまうが、483年生まれなら死亡41歳で聖王の死亡が51歳で次の威德王が長寿だったので次の恵王の在位期間が短くなり、ちなみに、法王が短命だったため次の武王の在位期間が長い。
そして。もう一人の雄略天皇二三年「百濟文斤王薨。」の457年即位の宮の年数で雄略天皇即位前紀「縱火燔宅」と圓大臣宅を焼き、「設壇於泊瀬朝倉即天皇位」と泊瀬朝倉治天下天皇の誕生である。
古事記を書いた巨勢氏の役職名が、初代の泊瀬の若国出身の武将と役職どおり雄略天皇に仕えた磐坂市邊押羽皇子が、「即射殺市邊押磐皇子」と殺されその長男は「白髪大倭根子」と『古事記』白髪大倭根子「忍海郎女亦名飯豊王坐葛城忍海之高木角刺宮」と白髪という大倭の領地『日本書紀』顕宗天皇即位前紀「亦名忍海部女王」と葛城の忍海の女王になり、押磐皇子の名の通り伊和大神を祀る播磨を領有し、その子たちが清寧天皇二年「播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯於赤石郡縮見屯倉」・顕宗天皇即位前紀「縮見屯倉首忍海部造細目也」と播磨の明石に逃げていた。
このように、巨勢王朝の成り立ちの年代と明石に潜伏した背景が説明できた。

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