2019年1月7日月曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝5

 前回、396年に即位した応神天皇葛城襲津彦を書いたが、同じことは『三国史記』にも当てはまり、「阿達羅尼師今」173年「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」の卑弥呼が同じなら卑弥呼はお化けで、実際は「奈解尼師今」二十年で215年の可能性が高く、当てはめ間違いを起こしている。
そして、「祇摩尼師今」「九年 夏四月 倭人侵東邊」「十一年・・・ 夏四月・・・倭兵大來爭遁山谷 王命伊飡 翌宗等諭止之」「十二年 春三月 與倭國講和」の記事も「婆娑尼師今」9・11・12年で、『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「到新羅。時隨船潮浪達逮國中。即知。天神地祇悉助歟。新羅王於是戰戰栗栗」・「新羅王・・・吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也」・「爰新羅王波沙寐錦。即以微叱己知波珍干岐爲質。仍齎金銀彩色及綾羅縑絹。載于八十艘船。令從官軍」・「從今以後。永稱西蕃。不絶朝貢。故因以定内官家」と神国日本に助けを求めて、新羅王波沙寐錦が人質を差し出し講和している。
「波沙寐錦」は「婆娑尼師今」のことで、西暦92から95年に「大臣武内宿禰自穴門還之」と穴門にいた王者は仲哀天皇二年「天皇於是將討熊襲國。則自徳勒津發之。浮海而幸穴門」と熊襲征伐した中国周防の王者は「帯中日子」で熊襲を征伐した「帯中日子」は『後漢書』「桓・靈閒 倭國大亂」と国内がまとまらない倭国とともに新羅を攻めた。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年の「到新羅・・・天神地祇悉助歟」と新羅内で天神地祇の助けは『後漢書』「馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神,號為天君」と合致し、新羅国内に倭を助ける勢力があったことが解り、さらに、神功皇后摂政四六年「百濟王聞東方有日本貴國」初めてお目見えしたように記述して、尾張王朝への挨拶で倭国に対してではない。
神功皇后摂政五十二年「久氐等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口」は『石上神宮伝世の七支刀』と考えられ、「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世」と銘があり、 西晋の「泰始四年」(268年) 東晋の「太和四年」(369年) 劉宋の「泰始四年」(468年)の説があるが、私は、泰■四年は日本の年号で旧暦372年七月十六日と考えている。
十■の■は七の下棒線が消えたもので、この日は丙午にあたり、468年は近肖古王の時代で孫の枕流王に皇子阿莘王が生まれたお祝いの刀を送ったと思われ、枕流王は385年に崩じ、皇太子は「六十五年。百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。」とまだ13歳で若いため、枕流王の弟辰斯王が即位し、阿莘王が392年20歳で即位している。
これは、321年即位の神功皇后がいて、その52年目で、「五十五年。百濟肖古王薨」は375年、「六十四年。百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。」は384年と裏付けていて、久氐や襲津彦の記事は321年即位の神功皇后の年表で考えなければならず、「晋武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重貢獻。」などは雄略時代に『三国志』を読み割り振った記事で年代感覚は間違っていない。
神功皇后摂政四六年「時百濟肖古王深之歡喜而厚遇焉・・・」は366年でまさに肖古王が百済王で、神功皇后摂政四九年「撃新羅而破之因以平定比自㶱(昌寧郡)南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」は『三国志』「北岸狗邪韓國」、崇神天皇六五年「任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也」とも異なる『宋書』「渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿」のことで、応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と葛城王朝に帰順した倭国が、王朝の代表として述べた言葉である。
尾張王朝の国名は「百濟王聞東方有日本貴國」と日本なので、「七枝刀」は369年に倭王に送られたが、尾張王朝の年号が書かれていることもあって倭王が尾張王朝に献上したか、王朝が召し上げた。

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