『先代旧事本紀』は物部氏の史書であるので、『先代旧事本紀』序文「先代舊事本紀者聖徳太子且所撰」のように書かせたのは聖徳太子だが、この聖徳太子は物部氏の太子である。
推古天皇が書かせた『日本書紀』も敏達天皇五年「其一曰菟道貝鮹皇女 是嫁於東宮聖徳」と記述して、聖徳太子は一人、『日本書紀』は「廐戸皇子 更名豐耳聰 聖徳 或名豐聰耳 法大王 或云法主王」と複数の人物を一人に重ね合わせているが、『先代旧事本紀』の聖徳太子は物部氏の太子ひとりであるから間違えようがない。
『先代旧事本紀』天孫本紀物部十四世「弟娣生 物部石上 贄古連公 此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と石上贄古が聖徳太子の第一候補で、石上贄古の子は「御井夫人爲妻生四兒」と崇峻天皇の夫人を妻にして四兒がいるはずなのに、『先代旧事本紀』に記述されず、全滅した聖徳太子一族とよく符合する。
『先代旧事本紀』推古天皇「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩 卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為 大臣馬子宿祢見殺」と用明天皇は敏達天皇の中に含まれ、石上贄古は御井夫人の甥なのだから、御井夫人を襲名した敏達天皇との娘を石上贄古は妻に、石上贄古はもう一人の『日本書紀』では用明天皇と呼ばれる敏達天皇の子である。
従って、石上贄古が馬子大臣に書かせた『先代旧事本紀』の神武天皇は大彦によって王朝を開くことができたのだが、前回、『日本書紀』継体天皇二四年「大彦申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者」はまさに同じ内容で、継体天皇は物部王朝の中興之功者だと讃えているのである。
そして、「繼體之君」と呼ばれ、『先代旧事本紀』には神武天皇から推古天皇まで記述され、既に『先代旧事本紀』作成時には天皇号が「諡号」され、しかも、本人が即位した時に名乗っていた。
この王号は天皇だけでなく、多くの大王が名乗り、皇太子の石上贄古は聖徳、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆干食王后」と筑紫大君は法興、太后は鬼前、王后は干食と呼ばれている。
継体天皇は517年即位で即位24年目の540年に磯城嶋で継体天皇二四年「獲奉宗廟不危社稷」と皇位を完全なものとして、高らかに宣言したが、『先代旧事本紀』天孫本紀物部十三世「物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」と継体天皇の時、物部目が大連で、帝皇本紀 欽明天皇 「元年・・・物部目連公為大臣」と540年に大臣になった。
まさに、物部目が皇太子大臣になったのであり、天孫本紀物部十四世「物部金連公・・・目大連之子」と記述され、皇太子が若くて即位できず、安閑「物部麁鹿大連公・・・勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」、そして宣化は「荒山連公 日大連之子此連公檜前廬入宮御宇天皇御世為大連」が即位し、十五世「物部目連公・・・此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連」と目大連の孫が襲名相続した。
天孫本紀物部十五世孫「内大紫位物部雄君連公 守屋大連之子・・・物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と十五世孫「物部大人連公 御狩大連之子此連公物部雄君連公女有利媛爲妻」と雄君が兄弟の目大連女豊媛を娶り、自分の娘が兄弟に嫁いで、すなわち、雄君が守屋の子なら雄君も孫も守屋の宮殿に住む守屋で、守屋は目連の娘婿であり孫であり、難波朝まで雄君の宮は続き、「大紫蘇我連大臣薨」と大紫は大臣に当たる位冠だ。
そして、その守屋が帝皇本紀 用明天皇「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と物部目王朝の最後の皇太子となり、蘇我馬子と聖徳太子に滅ぼされ、敏達天皇に含まれる用明天皇末、帝皇本紀 推古天皇「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と物部目天皇も殺害され秦王国は滅亡した。
『旧唐書』「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」と631年来倭しているので、秦王国から倭に政権交代していることから証明される。
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