2019年1月30日水曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝1

 『古事記』は仁賢天皇が書き『日本書紀』の崇峻天皇までと『古事記』及び『先代旧事本紀』を完成させたのは馬子で、仁賢天皇から推古天皇までの天皇名は遠慮なく馬子の家系の名前を記述すればよい。
履中天皇四年「記言事達四方志」と仁徳天皇まで史書を作った履中天皇には葛城氏の允恭天皇までの名前が記述され、それを継承して雄略天皇は日本書紀に平群氏の名前を書き足し、仁賢天皇は仁賢天皇までの巨勢氏の名前を史書に残した。
そして、雄略天皇二一年「日本舊記云」・宣化天皇四年「皇后崩年傳記無載」と宣化天皇まで記述された史書や系図が残されていて、おそらく、それには継体天皇まで記述されていた可能性が高く、「男大迹」には役職名が思い浮かばないことから天皇名と考えてよいと思われる。
従って、それ以降は馬子の家系の名で推古天皇まで残り、それに追加したのは、推古・舒明を書き足した、舒明の皇太子とされる天智天皇で、実際に記述したのは『先代旧事本紀』を馬子が書いたように、孝徳天皇即位前紀「以中大兄爲皇太子以阿倍内麻呂臣爲左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」と蘇我氏で舒明天皇も蘇我氏の名前と考えられる。
そして、その舒明天皇の名前は「息長足日廣額」で息長氏の氏族長のように書かれ、本来は物部氏の氏族長の姫の血を継ぐ入鹿が皇位を継いだ時に完全な天皇になることができたと考えられる。
そして、蘇我氏の継体天皇は継体天皇即位前紀「譽田天皇五世孫彦王人王之子也」で応神天皇は葛城王朝の応神天皇武内宿祢で、『古事記』大倭根子日子国玖琉「娶木国造之祖宇豆比古之妹山下影日売生子建内宿祢」と紀伊国造の祖の孫すなわち義理の兄弟が木国造の武内宿祢、応神天皇の親は帯中日子と中(なか)国王で血縁が若国王、母親が息長帯日売で息長氏の氏族長である。
そして、『古事記』品陀和気「息長真若中比売生御子若沼毛二俣王」と母と同様に息長氏の皇子で、仲哀天皇の父 倭建は「倭建命・・・一妻之子息長田別王」・「是倭建命之御子等・・・次息長真若中比売・・・息長田別王之子杙俣長日子王。」と子が息長田別王や応神天皇の妻が 倭建の姫の息長真若中比売でおそらく、「一妻」は息長氏の姫で息長宿祢の兄弟であろう。
『古事記』品陀和気「此品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂弁亦名弟日売真若比売命生子大郎子亦名意富ゝ杼王」と 若野毛二俣王の妻も息長氏で『仮名源流考. 証本写真』の上宮記逸文に「此意富富等王・・・兒乎非王・・・兒汗斯王」と記述され『日本書紀』継体天皇即位前紀「譽田天皇五世孫彦主人王之子也」と血筋を記述される。
5世の孫だから百数十年程度前が応神天皇で葛城氏の応神天皇の武内宿祢の末裔の蘇我氏で間違いない様で、汗斯王は「近江國高嶋郡三尾」と近江国に居て、近江国は巨勢氏の領地で、巨勢氏が負けて安閑天皇に没収された土地すなわち蘇我氏は巨勢氏の配下であったが、蘇我氏は葛城氏の末裔であり、母振媛は「活目天皇七世之孫也」と垂仁天皇の末裔・三国出身で尾張氏の姫で、稲目は尾張の屯倉を支配している。
そして敏達天皇四年「立息長眞手王女廣姫爲皇后・・・押坂彦人大兄皇子」と押坂彦人は舒明天皇即位前紀「息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彦人大兄皇子之子也」と息長氏の皇子を証明し、継体天皇元年「次息長眞手王女曰麻績娘子 生荳角皇女 是侍伊勢大神祠」と息長氏は継体天皇の妃でもあり、蘇我氏は息長氏の家系でもある。

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