2019年2月1日金曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝2

 物部氏は巨勢氏に対抗するためなのか、蘇我氏を見出し、蘇我氏の「広国」王は磐井の戦いで活躍して、崇峻天皇五年「東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘蘇我馬子宿禰女也」と磐井の子の糟屋郡の王を娘婿にして配下としたように、中国に承認された倭国を手に入れ天国倭王になり、臣の棟梁に据えられ、稲目の皇子たちを広国や豊国の王にして巨勢氏も取り込み、馬子の名は「廐戸」説話にピタリの名前で「廐戸豐聰耳」は豊国の皇子の名前である。
「天豐財重日足姫天皇渟中倉太珠敷天皇曾孫押坂彦人大兄皇子孫茅渟王女也」と息長氏の皇子彦人の孫皇極天皇も、「天萬豊日天皇天豐財重日足姫天皇同母弟也」と孝徳天皇も舒明天皇が叔父にあたり、豊の皇子としている。
蘇我氏稲目は欽明天皇十六年「吉備五郡置白猪屯倉」、欽明天皇十七年「備前兒嶋郡置屯倉」・「倭國高市郡置韓人大身狹屯倉」・「紀國置海部屯倉」、馬子も敏達天皇三年「吉備國増益白猪屯倉與田部」と巨勢氏の領地だった地域に影響力を持ったようだ。
そして、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年に馬子が「押坂彦人大兄皇子」が、もちろん彦人は押坂の生まれで、用明天皇二年「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之俄而知事難濟歸附彦人皇子於水派宮」と水派宮に遷ると決め、まだ、遷っていない時、しかも、彦人は立太子していないので、大王年なのだから、皇太子になった、すなわち、彦人の父が天皇になった623年に馬子がお祝いに鏡を作らせた。
そして、崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「速往誅殺穴穗部皇子與宅部皇子」と彦人が大王になった年に薨じた皇子は穴穗部皇子で穴穗部皇子は彦人の前の皇太子だったのであり、『先代旧事本紀』には「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩卅九年當于泊瀨部天皇五年十一月天皇為」と用明天皇在位の2年間は敏達天皇に含まれている。
ここで、推古天皇はいつ即位したかを考えると、推古天皇十六年「皇帝問倭皇使人長吏大禮蘓因高等至具懷・・・饗唐客等於朝」と唐使裴世清が妹子親書の返礼で来日しているが、631年『旧唐書』貞觀五年「遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」に対応する記事だ。
『隋書』大業三年「・・・明年上遣文林郎裴清使于俀國」と608年記事では妹子の年齢に矛盾があり、相手国は唐で俀國ではなく倭国宛ての親書とこれも矛盾しており、おそらく、『隋書』を参照して『日本書紀』を記述した結果だと思われ、すなわち、推古16年は631年と解り、推古天皇が皇后になったのが616年、崩が651年だったということだ。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年「蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺」と守屋との戦いで宣言し、崇峻天皇元年「始作法興寺此地名飛鳥眞神原亦名飛鳥苫田」と創建した飛鳥寺の下層に須恵器が発掘されたが、この土器を基準に590年頃から須恵器の型が変わったとされる。
しかし、この土器を作った窯の基礎工事で使用した木片が613年以降に切り出した木片で、この窯から隋様式の硯が出土し、590年飛鳥寺創建は有り得ず、630年創建が正しいと思われる。
さらに、『船王後墓誌』「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇・・・三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑 」と船王は敏達天皇四年「遂營宮於譯語田」と敏達天皇時に生まれ、池邊雙槻宮・倉梯宮のころは子供で仕えず、推古天皇即位前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」から皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」まで仕え、641年薨じた。
この年が「阿須迦天皇之末」と墓誌に記述していて、皇極天皇二年643年遷都ではなく、641年まで阿須迦宮、628年まで等由羅宮、624年まで乎娑陀宮で池邊雙槻宮・倉梯宮は無かった可能性がある。

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