2019年2月4日月曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝3

 そして、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願」と642年から池邊大宮に遷都していた天皇が649年大病し、薬師如来像を造ったが、間に合わず、「丁卯年仕奉」667年に奉納したと記述している。
これも、推古天皇651年死亡と齟齬が無く、『上宮聖徳法王帝説』「上宮聖徳法王 又云法主王 甲午年産 壬午年二月廿二日薨逝也」と622年死亡しているが、もちろん、これは「右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文 即寺造始縁由也」と薬師像光後銘からの説だが、『日本書紀』推古天皇二九年「半夜厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮」と『日本書紀』は621年の薨として矛盾している。
これが、推古616年即位説で調べると、 推古天皇二九年は644年で皇極天皇二年「終與子弟妃妾一時自經倶死也・・・山背大兄王等惣被亡於入鹿・・・棄捨其宮匿深山相也」と643年11月から始まった入鹿と山背大兄との戦いで「有人遥見上宮王等於山中」・「以渠梅野倶而喩燒上宮」と上宮の王と記述している。
山背大兄は宮を捨てて深山に匿れ山背大兄と上宮王の死を記述せず、上宮王の644年薨は十分あり得て、推古天皇の皇太子が聖徳太子なのだから、太子になるとき20歳以上なら推古天皇ではなく聖徳太子が天皇になればよいのだから、推古天皇即位時は20歳未満で、630年に太子で44年は34歳未満で山背大兄は10代である。
そして、7年後に田村皇子と生き延びた山背大兄が皇位を争い、山背大兄が20歳以上で皇位継承権があり、舒明天皇即位前紀「山背大兄亦遣櫻井臣告大臣曰先日之事陳聞耳寧違叔父哉」と蝦夷が山背大兄の叔父、すなわち、蝦夷と聖徳太子が兄弟と呼び、舒明天皇即位前で蝦夷が大臣になる前に大臣と呼んでいるが、これは、2代目の馬子だろう。
『先代旧事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と贄古の子が聖徳太子でその兄弟の鎌媛の夫が入鹿の父として豊浦大臣は義理の叔父で『先代旧事本紀』「守屋・・・弟娣生物部石上 贄古連公」と御井夫人の弟(用明天皇)の子が贄古(聖徳太子)で、嶋大臣と豊浦大臣を同じ人物、豊浦大臣と入鹿を同じにしている。
『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王」は関係ない「薬師像光後銘」を流用し、「叔尼」は稲目には「宿禰」を使用していて宿殿のある宮の王の意味で、馬子の宮が稲目の複数の宮の子で用明も娘婿で稲目の宮で聖徳太子はその子で叔宮にあたり、推古天皇の娘も叔宮の姫だ。
そして、643年推古天皇二八年に「皇太子 嶋大臣共議之録天皇記及國記臣連伴造國造百八十部并公民等本記」と『先代旧事本紀』を創り、推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と649年初代の馬子が薨じ、2代目馬子が大臣となり、『古事記』沼名倉太玉敷「娶息長真手王之女比呂比売命生御子忍坂日子人太子・・・日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と記述されるように、息長氏の皇子が天皇となった。
しかし、『日本書紀』には舒明天皇即位前紀「母曰糠手姫皇女」と田村王が記述されず、母が田村王の舒明天皇と母が糠手姫の舒明天皇が存在し、『藤氏家伝』「及崗本天皇御宇之初 以良家子 簡授錦冠 令嗣宗業 固辭不受 歸去三島之別業 養素丘園 高尚其事 俄而崗本天皇崩 皇后即位」と中臣鎌足が舒明天皇即位時の恩賞を固辞して三島に帰ったが、すぐに崗本天皇が崩じたと記述されている。
この、崗本天皇が孝徳天皇なら鎌足の栄華と合わないので舒明天皇で間違いなく、田村皇子は即位して、俄かに崩御し、馬子の夫人鎌媛大刀自が吉備嶋皇祖母で糠手姫を母に持つ馬子が天皇、蝦夷が皇太子の大臣となった。

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