2019年2月15日金曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝4

  『日本書紀』の皇極から天智までは天武天皇が大化五年699年まで書いたと述べたが、天智天皇七年「阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂(或本云名姪娘曰櫻井娘)」と699年以降の記事があって、指摘を受けそうだが、『日本書紀』は原則原文を修正せず、後代に間違いと思われるところや説明は小文字で追記しているが、舎人親王達は「倭」を「日本」に、「命」を「尊」に説明抜きで書き換えている。
すなわち、この、元明天皇の説明は舎人親王達が付加したもので、元明天皇の父が天智天皇か不明で、持統天皇とも母が実際は姪で、もし義理の姪となるとかなりの氏族が血縁となり、父は血縁関係が有るか不明、母も遠縁でほぼ赤の他人で、自分の兄弟が良くわかっていないなどと言うことは有り得ない。
720年頃、兄弟がかなり高齢になったとは言え、父母が良くわからないなどと言うことは有り得ず、また、元明天皇の父を天智天皇とすると40歳の年齢差は異様で、世代としてもやはり天智天皇は690年代まで生きていないと常識的とは言えず、前項の鎌足692年死亡の推定に合致する。
壬申の乱で出現する人物は「大皇弟」「天皇」「大友皇子」「大津皇子」「高市皇子」で「草壁皇子」は戦っておらず、天皇の弟は本来「皇弟」で、用明天皇に「皇弟皇子者穴穗部皇子」、孝徳天皇には「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等」と出現し、天智天皇の弟ならやはり「皇弟」で、皇嗣ならやはり立太子した皇太子で「大皇弟」とは呼ばず、孝徳天皇の皇弟が天智天皇の代になって「大皇弟」と呼ばれたと考えた方が順当だ。
しかも、壬申の乱には死んだはずの天皇が出現し、天智天皇は皇極天皇即位時は「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と16歳で壬申の乱の時「天皇謂高市皇子曰其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無與計事者唯有幼小少孺子耳」と天皇が近江の大臣が謀反を起こして、自分に従うのは幼い子供たちだけと嘆き、672年時点では高市皇子を含めて幼い子たちだけで、かろうじて、大友皇子と大津皇子が13歳以上なのだろう。
天武天皇八年「天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰、朕今日與汝等倶盟于庭・・・則草壁皇子尊、先進盟曰・・・吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹」と芝基皇子が兄弟ではないはずなのに兄弟と述べ、矛盾をきたしている。
天智天皇一〇年「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛」と立太子無しで皇太子に就任しており、天智天皇の長男が皇太子になり、大皇弟が大臣らと反乱を起こしたのが壬申の乱で、天智天皇が勝利して、天武天皇十年681年に草壁皇子が皇太子になっているのだから、草壁皇子が皇弟で2代目天智天皇が就任したとも考えられ、第2の壬申の乱が695年に退位させられた草壁皇子(大海皇子)が政権を奪った可能性も否定できない。
664年の孝徳天皇死後、天智天皇が20歳以上なら、摂政などではなく天皇に即位すればよく斉明天皇四年「方今皇子年始十九未及成人可至成人而待其徳」と有間皇子を成人でないと諫めていて、20歳以上が天皇になるための最低条件のようである。
孝徳天皇死後、天智天皇即位前紀「皇祖母尊即天皇位」と天豐財重日足姫皇祖母が天皇に即位して、『旧唐書』665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」中国に赴き、『新唐書』「其子天豐財立死子天智立」と皇帝が対面した天豐財の名が残り、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年中宮天皇が大病を患ったと記述されている。
そして、『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇」と680年に伽藍を建てたと中宮天皇を先皇の大上天皇と呼んでいる。

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