2019年2月22日金曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝2

 前回、701年にクーデタで飛鳥清原天皇を打ち破って飛鳥清原で即位したと述べたが、『日本書紀』には持統八年694年に「遷居藤原宮」と遷都しているが、『続日本紀』に慶雲元年704年に「始定藤原宮地」と藤原に都を定めたと記述されている。
『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘」と689年に飛鳥浄御原大宮から評督を賜たが700年に亡くなって碑を建てたが藤原宮を一言も言及していないので藤原宮は700年より後と考えられる。
それに対して、707年死亡の『大村骨臓器銘文』に「後清原聖朝初授務廣肆藤原聖朝小納言闕」と記述され『続日本紀』慶雲三年706年に「從五位上猪名眞人大村」と記述され704年以降は確かに藤原朝でそれ以前に前後の清原聖朝がある。
『粟原寺鑪盤銘』には「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之」と浄御原宮天下天皇時に日並御宇東宮が死んだと述べ「至和銅八年」と715年6月以前に銘板を作成し、藤原天皇と書いていない。
さらに、『日本書紀』では持統二年688年に「藤原朝臣大嶋」と記述し、持統四年690年「中臣大嶋朝臣」、持統五年691年「中臣朝臣大嶋」と中臣に戻している。
この、中臣復帰は文武二年698年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」と神事を司る藤原は中臣姓に戻すという記事で、『続日本紀』養老五年721年大嶋の子馬養が「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」と藤原を名乗っている。
すなわち、『続日本紀』の698年が持統2年か3年に当たり、701年のクーデタで大嶋の家系は藤原に戻り、他の中臣氏は戻っておらず、さらに、『粟原寺鑪盤銘』で日並が薨じたのが694年頃で、この頃なら『粟原寺鑪盤銘』は「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋」と中臣で間違いなく、689年4月3日中臣復帰施行とこの銘文は考えたのだろう。
さらに、粟原寺建立を始めた大嶋が死んだので『粟原寺鑪盤銘』は「爾故比賣朝臣額田」と額田姫が後を継いでいて、普通に読めば大嶋の子が太子の時薨じたので、694年に粟原寺を建立したが途中で大嶋が薨じたので、日並の妃額田が後を継いで715年初旬に完成させ銘板を書いたと読める。
すなわち、日並は中臣朝臣日並と呼ばれた人物で、『日本書紀』天武天皇二年の「天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女」の天皇は『興福寺流記』「安置前像大臣不許」の像は日並の像の可能性があり、持統天皇・元明天皇が額田姫の可能性が高く、額田姫は『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)の「冬十月内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女請曰別造伽藍」と鏡王は鎌足の妻で、鎌足と大嶋の孫が文武天皇ということになるが、私はこの内大臣は入鹿と考えていて、物部氏の推古天皇が額田部で入鹿が物部氏の皇子で鏡王の娘が額田と十分あり得そうだ。
『大村骨臓器銘文』の「後岡本聖朝、紫冠威奈鏡公之第三子也」と威奈公の娘も否定はできないが王と呼ばれているのなら銘文に遠慮することは無く、『日本書紀』にも「胸形君徳善女尼子娘」と同じように威奈王鏡の娘と書かれるはずで、天武天皇十二年「天皇幸鏡姫王之家訊病」と『興福寺縁起草』の「鏡王女」と対応して記述して威奈王鏡の家とはしていないし、天武十二年に白鳳年間が終わり、鏡王女が皇后・皇太后だった期間で、物部王家の終焉だったのではないだろうか。
額田姫の子十市皇女は大友皇子妃で子は葛野王で、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻自今以後給中臣氏」と葛野が中臣氏の領地になり葛野の王は葛野王である。
従って、『日本書紀』の天武天皇が日並なら、持統天皇は額田姫で、天渟中原瀛眞人も高天原廣野姫も臣下の役職名だった可能性がある。

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