天智天皇を分けた理由は、天智天皇が宮を難波・飛鳥浄御原・近江と宮を遷ったからと書いたが、その裏付けは天武天皇十二年「凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波」で宮を2・3造ると言って難波にまず造ろうと言い、実際、外交使節の饗応を推古天皇十六年「饗客(唐客)等於難波大郡」と推古天皇が難波大郡、斉明天皇元年に「於難波朝饗北」と蝦夷と百済を朝廷で、斉明天皇二年「於飛鳥岡本更定宮地。爲張紺幕於此宮地而饗焉」と高麗百濟新羅を饗応した以外は場所を記述しない。
これは、外交で饗応する場所は首都の宮殿に決まっているので、それ以外で饗応するときに記述するのであって、推古天皇は難波大郡ではなく推古天皇十一年「遷于小墾田宮」、斉明天皇も難波朝や岡本宮ではなく斉明天皇元年「天皇位於飛鳥板盖宮」と違う場所が首都である。
そして、663年から5回、672年以降27回外交的饗応を行っているが、671年までは場所が記述されず、首都での饗応で、692年までは2回首都でほとんどが筑紫、飛鳥寺が4回筑紫館が2回、難波館が2回である。
そして、『続日本紀』でも慶雲元年に「始定藤原宮地」と藤原遷都前のみ難波館で以降は首都で饗応しており、これは、首都が筑紫や難波以外すなわち近江に有り、672年以降は首都は近江に残しながら首都機能が筑紫に遷り、その他に難波にも首都機能が有ったことを意味し、大宰府市の条坊跡は井上信正氏によると丁度670代頃に当たると述べられている。
さらに、首都飛鳥浄御原が飛鳥板葺宮に有ったのなら、飛鳥寺で饗応する意味が無く、飛鳥浄御原は首都でなく、688年までは少なくとも首都が近江に有ったと考えられ、690年に筑紫での饗応に天皇が出席せず報告を受けたのみで、それ以降筑紫での饗応を記述しない。
天智天皇一〇年671年に「以大友皇子拜太政大臣」、持統四年690年に「以皇子高市爲太政大臣」と太政大臣を決めた時、首都機能が筑紫へそして新たな首都へと変化しているということは、大友皇子が太政大臣になって671年に首都機能を筑紫に置き、太政大臣を高市皇子に受け継いだことを意味している。
そして、天武天皇十年に「立草壁皇子尊爲皇太子」と2代目天智天皇(大友皇子?)が実質皇位を継承して皇弟草壁皇子が実質皇太子となったが、690年におそらく2代目天智天皇の長男高市皇子が太政大臣となって実務を行い実権を手中にし、天智天皇崩の前に皇太子を廃されて、大皇弟となった。
天智天皇一〇年に「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴」と皇太子が記述され、その後大友皇子は皇太子と呼ばれず、壬申の乱では皇太子は出現せず大皇弟が出現し、皇太子が天皇に即位したことが解る。
すなわち、第二の壬申の乱が発生し、大友皇子の皇太子高市皇子と廃嫡された大皇弟の戦いで、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立」と弟天武では無く、その子総持と更に直系の皇子が皇位を継承して、血縁関係のない文武が新たな王朝を立ちあげるのである。
そして、文武以降は中国とつながりが希薄になり、阿閇と阿用、霊亀が白亀と正確性を欠き、宋史も「次阿閉天皇次皈依天皇」と、続日本紀とどちらが正しいか、それとも他王朝の天皇名か解らず、すなわち、実質の初代天皇は「子阿用立」もしくは「皈依」と元明天皇の子の元正天皇で、霊亀元年715年が実質の王朝交代で2王朝が併存していたと『新唐書』は述べているのである。
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