2019年2月11日月曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝2

 天智天皇は天智天皇即位前紀に「息長足日廣額天皇太子也母曰天豐財重日足姫天皇」と舒明天皇と皇極天皇の子と記述されているが、皇極天皇は皇極天皇即位前紀に「 渟中倉太珠敷天皇曾孫 押坂彦人大兄皇子孫 茅渟王女也 母曰吉備姫王」としていて、欽明天皇の皇子桜井皇子の子と言われているが記紀に書かれず吉備姫の親が不明だ。
『古事記』沼名倉太玉敷に「娶伊勢大鹿首之女・・・次宝王亦名糠代比売王・・・日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇・・・娶春日中若子之女老女子郎女生御子・・・大俣王・・・娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」とやはり知奴王の母親にも矛盾が有って、漢王が誰か解らない。
漢王は応神天皇二十年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と十七縣を従えて天皇に帰順した阿知使主親子が雄略天皇十六年に「賜漢使主等賜姓曰直」と漢直を賜り、崇峻天皇五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と東漢直は筑紫国造磐井の子と記述されるのだから、西には同じ磐井の子の葛子が筑紫君と呼ばれ、その子たちの中に漢直が考えられ、筑紫君は朝廷内で漢王とされていた可能性が高い。
そして漢直は斉明天皇七年五月「人東漢草直足嶋所讒」と出現し、天武天皇六年六月に「詔東漢直等曰汝等黨族之自本犯七不可也是以從小墾田御世至于近江朝常以謀汝等爲事今當朕世將責汝等不可之状以随犯應罪然頓不欲絶漢直之氏故降大恩以原之從今以後若有犯者必入不赦之例」と過去の罪を叱責されこれ以降、『続日本紀』延暦元年に「倭漢忌寸木津吉人等八人言吉人等是阿智使主之後也是以蒙賜忌寸之姓可注倭漢木津忌寸」と倭漢直祖阿知使主の末裔として出現している。
出現しない期間はまさしく天智天皇が皇位に就いた時からで、叱責されたのはおそらく文武天皇6年の王朝奪取後の可能性が高い。
すなわち、『隋書』の「多利思北孤」も『古事記』・『日本書紀』では2代ずれたとすると敏達天皇に当てはめて、『先代旧事本紀』の推古天皇には「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」・「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と敏達天皇の中に用明天皇も含まれているので、『新唐書』の「次用明亦曰目多利思比孤」は敏達天皇と考えてもよく、太子「利歌彌多弗利」を日子人に当てた可能性が高い。
そして、皇極天皇三年正月に「請納蘇我倉山田麻呂長女」と倉山田麻呂長女を妃に迎え、大化五年三月是月に「皇太子妃蘇我造媛聞父大臣爲鹽所斬・・・造媛遂因傷心而致死焉」と妃が死んでいるのに斉明天皇四年に「皇孫建王八歳薨」と死んでから10年後に8歳の皇子が薨じ矛盾している。
さらに、『藤氏家伝』では、「改元爲大化 ・・・抑又此擧 仍拝大錦冠 授内臣 封二千戸」のあと続けて、「白鳳五年 秋八月・・・其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸」と加増し、直後に「俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲」と孝徳天皇が崩じている。
白鳳と白雉の間違いのように見えるが、続けて、「十二年冬十月天皇幸于難波宮」・「十三年春正月御船西征」・「十四年 皇太子攝政」と斉明天皇は7年間の在位で皇極天皇の4年間を併せても11年間で 十四年は矛盾しており、『日本書紀』が出来上がってから記述された文献なのだから、『日本書紀』に従うのが当然なので、『藤氏家伝』は『日本書紀』と対象の天皇が異なる表現をしていると考える方が理にかなっている。
すなわち、誕生は物部王朝推古、乙巳の変は蘇我王朝後崗本白鳳、そして天氏王朝で表現したが、『日本書紀』が常識となっていたため、鎌足の死が56歳の制約で669年死亡としたが、実際は不比等の620年62歳死亡の年齢と藤原賜姓が藤原宮建設時と考えた方が理にかない、692年死亡と私は考えている。

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