2019年2月13日水曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝3

 孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年に「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊立中大兄爲皇太子」とあるように、皇祖母は俀国王が王位を引き継いだ時に女性の大王が襲名する地位で、天皇に対する皇后ではなく皇太后と同じ感覚のようで、天皇が前皇后を尊んで襲名したことを意味する。
すなわち、この皇祖母は孝徳天皇の前代の皇后で、天智天皇が皇太子になったのは孝徳天皇が前代の大王の弟なので、天皇の甥は立皇太子で、それ以前は高祖母の夫が大王で太子は古人大兄が皇太子と考えられる。
そして、高祖母の夫は俀国王すなわち筑紫大君「筑紫君薩野馬」で、皇極天皇元年「葬息長足日廣額天皇于滑谷崗」・皇極天皇二年「葬息長足日廣額天皇于押坂陵或本云呼廣額天皇爲高市天皇也」と舒明天皇を2回葬しているのは、一方は蘇我天皇で一方は薩野馬と思われ、後代高市天皇と呼んだのだから、高市皇子は嫡流の皇子で、薩野馬の宮殿の姫の皇子の可能性が高い。
薩野馬は天智天皇一〇年帰国と記述されるが、天智天皇八年に到着した郭務悰は帰国しておらず、唐の大軍の先触れなら天智天皇三年のほうがふさわしく、この時の郭務悰来日の陣容は記述されず、持統四年記事も「天命開別天皇三年」と記述される。
すなわち、664年5月郭務悰が来日して筑紫君も一緒だったのだが、病気のためか死んでいたか解らないが十一月に「對馬國司遣使於筑紫大宰府言」と対馬国司から報告があって帰国を知り見つけ出したが崩じていて皇極天皇二年に埋葬され、皇太子の古人皇子は権力闘争に負け皇太子を廃位させられた。
この権力闘争の経緯は、大君が唐との戦いで661年に捕虜となり、祖母の吉備嶋皇祖母が薨去したため、古人皇子が天皇代行で天智天皇が摂政となって権力を集中して実権を持ってしまった。
そして、鎌足と郭務悰とで664年5月に天皇と皇太子を殺害するクーデターで対唐戦の責任を負わせるため、責任者の天皇・皇太子を殺害し、当然、俀国王も俀国皇太子も戦犯で天皇即位など考えられず、薩野馬は日本に帰っても唐に幽閉させられ、古人太子はクーデターに協力することを条件に仏門に入ることで許されたと考えられる。
天智天皇三年(664)五月「大紫蘇我連大臣薨或本大臣薨注五月」と五月に書かれながらわざわざ五月と書いていることから、おそらく六月二十九日乙巳の日にクーデターが起こり、天皇の前で帯刀が許される大臣で皇太子の入鹿が誰よりも後に入室し、天智達に騙されて刀を外され殺された。
そして、蝦夷も俀国の最高権力者の天智天皇の祖母も「六月嶋皇祖母命薨」と殺害され、 孝徳天皇が即位したが、『藤氏家伝』に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と孝徳天皇は即位して俄に白雉五年十月壬子「天皇崩于正寢」と4ヶ月で崩じた。
そして、全権を握った天智天皇が天智天皇三年「十月饗賜郭務悰等」と唐に天智の母で皇祖母の復帰の承認を得て。「十二月甲戌朔乙酉郭務悰等罷歸」と664年12月に皇祖母から復帰した皇極天皇が『舊唐書』に665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」と唐の天子と会見し天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等・・・廿二日進表函焉」と唐天子の表とともに帰国した。
すなわち、唐と戦った責任者の嫡流は全て責任を取らされ、天智天皇四年「二月癸酉朔丁酉間人大后薨」、斉明天皇四年十一月「遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂」、大化元年おそらく664・5年「古人大兄斬古人大兄與子其妃妾自經死」と孝徳天皇の皇后皇子・俀国王と全て一度に死亡して皇太子天智と皇極天皇・孝徳天皇の弟のみが生き残った。

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