『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)に「弘仁記云近江大津宮馭寓天武天皇二年歳在大俗同中呂大織冠藤原内大臣諱鎌子」と天武天皇2年に俗界の鎌足で存命と記述され、藤原姓を賜るのだから藤原の地に領地が有り、その領地に首都を持統四年690年に「觀藤原宮地。公卿百寮從焉」と誘致し、鎌足の姻戚の
中臣氏も天武天皇十二年683年に「小錦下中臣連大嶋」が天武天皇十四年685年に「藤原朝臣大嶋」と藤原氏の姓を贈られた。
そして、持統四年「神祗伯中臣大嶋」となっているが、大化4年、文武二年698年の「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」記事が反映されたもので、701年のクーデタで大嶋と鎌足の孫が天武天皇を追放して皇位に就き、大嶋は
持統七年693年「直大貳葛原朝臣大嶋賻物」と不明な姓を記述される。
これは、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻」が原因なら大嶋は死亡記事が無いが700年も存命で、不比等が持統三年689年「直廣肆土師宿禰根麿大宅朝臣麿藤原朝臣史」と16位で初出している。
それに対し、馬養が霊亀二年716年「正六位下藤原朝臣馬養爲副使」と16位での初出と差があるものの藤原姓を名乗って、霊亀年は正式に王朝を立ちあげた年号であることから、馬養は追い出した總持天皇と行動を共にした可能性があり、養老五年721年「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」の7位を最後に登場せず、馬養の子石木(石根?)からは中臣を名乗っている。
そして、712年には總持天皇の太子が年号を続けられず、霊亀元年、『日本書紀』では持統四年正月に「畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位」と元明天皇が正式に天皇になったことを宣言した。
持統十一年八月「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」すなわち、霊亀元年九月「天皇禪位于氷高内親王」と天皇位を禅譲して皇太后となることで、伝統的皇室、皇太后が存在し、宿殿に天皇が、20歳ではないためまだ天皇になれない実質天皇の15歳の皇太子が存在するワンセットの天皇が完成した。
そして、この王朝も長くは続かず、天智天皇の孫の光仁天皇が皇位に就き、天照大神の家系で、周代から中国に臣従した黄海の島々六合に住んだ倭が日本の国王天皇となり現代まで続いている。
藤原・中臣王朝は天武・文武・元明・元正・聖武天皇は『延喜式』巻二十一治部省國忌に入れてもらえず「天智天皇十二月三日忌崇福寺天宗高紹天皇(光仁天皇)十二月廿三日 忌東寺 桓武天皇三月十七日忌西寺」と天智・光仁・桓武天皇を入れて、天智天皇の末裔を認め、天皇に即位する時、聖武天皇から「淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と述べている。
以上史書と金石文、史書どおし、史書内での矛盾を究明することで、矛盾の原因究明と合理的な解消法を述べてきた。
歴史は権力者の目を通した書物だが、事実を歪めることなどはせず、主語を書かなかったり、主語を亦の名で誤解させたり、違う人物を同じ人物にしたりして、昔の有名な類似の事柄を入れ込むことで、史書を記述した王朝を正当化している。
複数の王を一人の王にすることで、王だった人物が違う王にとっては臣下となり、子になったり、親になったりして矛盾をきたすのであるが、だからと言って、書いてもないことを想像して歴史を作り出すことは、科学・歴史学とはとても思えないが、現代ではそれが横行していることが残念で仕方が無い。
次回からは史書の矛盾点を示しながら、『日本書紀』を検討していきたい。
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