2019年2月20日水曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝1

 天武天皇紀以降は大化6年以降の記事を中心に書かれている巻で、舎人親王達が記述し、壬申の乱は701年の文武天皇のクーデタを孝徳天皇の弟と蘇我氏の残党のクーデタや天智天皇の相続争いを使って記述したもので、『日本書紀』の複数の神武東征を一まとめにした記述と同じ一貫した記述方法である。
『古事記』序文では「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜竜体元洊雷応期」と「飛鳥清原大宮御大八州天皇」が統治する時に、天武天皇が統治している時に、元明天皇の先代は龍が潜んで善徳を身に着け、世の混乱に応じて立ち上がったと序文の対象天皇を述べている。
そして、673年2月に飛鳥清原に宮を遷すときの辛苦と同じように、飛鳥清原天皇の時代に先代は飛鳥清原で新王朝を打ち立て、その治世は「道軼軒后、徳跨周王」と中国の王朝の創始者黄帝の道や周朝の創始者周王の徳を比較して、元明天皇の先代はまさしく王朝の創始者だと述べてまだ天子にはなっていないとしている。
そして、序文を贈る『古事記』「伏惟皇帝陛下」と元明天皇に対して「可謂名高文命徳冠天乙矣」と伝説の王朝創始者夏の禹王や殷の湯王より優れているとご機嫌を取り、元明天皇が王朝の創始者だと言っているのである。
そして、壬申の乱の論功が、『日本書紀』に記述しないで、『続日本紀』の701年7月に詳細に記述していて、特に大伴連御行など何度も昇進しているが壬申年功に触れず、死亡時にも触れず、701年の『続日本紀』大宝元年二月庚午「車駕至自吉野宮」と吉野から帰った飛鳥清原天皇を2月29日壬申の日に起こしたクーデタを壬申の乱と呼び701年の論功と考えた方が理に適う。
『日本書紀』での壬申の論功者を701年に記述しているが、 榎井連小君・ 大伴連御行・阿倍普勢臣御主人・神麻加牟陀君兒首は『日本書紀』に記述されず、716年に45年もったってから再度恩賞を与えているが、それほどの論功者文直成覺・尾張宿祢大隅は『日本書紀』に記述されず、大伴連御行 は701年に死んでいるが論功していない。
藤原不比等は文武天皇の義父だが『続日本紀』文武四年六月「直廣壹藤原朝臣不比等」と官位が10番目だが、大宝元年三月「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と5番目に特進していて、大伴宿祢御行は文武四年「大伴宿祢御行並授正廣參」と6番目から「正廣參阿倍朝臣御主人正從二位」と4番目で不比等の特進ぶりが目立つ。
不比等は鎌足の子とは言え、『日本書紀』持統十年「直廣貳藤原朝臣不比等」と12番目が初出で皇太子の義父の地位としては低く、701年に文武天皇が新王朝を打ち立てて即位したと考えれば納得できるし、他の冠位の順当さも良く理解できる。
そして、慶雲元年704年「大納言從二位藤原朝臣不比等」で4番目、和銅元年708年「藤原朝臣不比等並正二位」で3番目、養老四年720年「就右大臣第宣詔贈太政大臣正一位」と死後1番目の冠位となり、子の「武智麻呂」は天平六年「 以從二位藤原朝臣武智麻呂爲右大臣」で、10番目和銅四年「 從五位下藤原朝臣武智麻呂」から神亀元年「 藤原朝臣武智麻呂。藤原朝臣房前並正三位」と5番目に昇進するのに13年かかっている。
この、壬申の論功の不可解さは3つの壬申の乱があり、3つの壬申の乱に新王朝が関わり、新王朝に貢献した人物を701年に新王朝を打ち立てた時に3つまとめて論功し、特に不比等が中心的役割を果たしたため特進し、615年正式に新王朝が璽を手に入れ、唐にも承認されて、霊亀と改元して正式な王朝を打ち立てて、再度壬申の乱から15年経って代替わりしているので子供たちに論功を与えたということである。

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