2019年2月6日水曜日

最終兵器の聖典 蘇我倭国王朝4

 推古天皇は物部氏ではあるが、「蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛 生七男六女・・・其四曰豐御食炊屋姫」と稲目の宮の堅鹽媛の娘でその宮は豊国を支配する王の宮で、稻目は豊国王だったので、豐御食炊屋姫が天皇になるということは豊国を支配する王の宮が「因以奉天皇璽印・・・皇后即天皇位於豐浦宮」と豊国王の浦宮が首都になったということで、それが、倭国の首都であった。
ここで、不明なことがあり、それは、蘇我氏と倭国王の接点で、蘇我氏は近江出身で不遇な立場で、『古事記』大倭根子日子国玖琉「蘇賀石河宿祢者、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等之祖也」と息長氏の祖でもなく、息長田別王・息長帯日売・息長真若中比売の皇子ではあるが豊国や筑紫王ではない。
そして、袁本杼が巨勢氏の跡継ぎとして継体天皇に協力して磐井を破って継体天皇側に引き込んで倭国発祥の地で倭国糟屋郡を手に入れ、その倭国王が息長真手王で、『古事記』袁本杼「娶息長真手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女」と息長氏に婿入りして倭王になったのではないのだろうか。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀「足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮・・・更造齋宮於小山田邑」と 息長帯日売は糟屋郡の猪野皇大神宮の齋王となり、継体天皇元年「次息長眞手王女曰麻績娘子生荳角皇女是侍伊勢大神祠」と、やはり皇女が大神を祀り、欽明天皇二年「堅鹽媛・・・其二曰磐隈皇女初侍祀於伊勢大神」と稲目の宮の姫が大神を祀り、敏達天皇四年「立息長眞手王女廣姫爲皇后・・・押坂彦人大兄皇子」と倭国王の姫廣姫が敏達天皇の皇后になり、彦人・馬子・推古天皇は兄弟で馬子が倭国王の跡取りと考えられる。
そして、崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇 或本云東漢直駒東漢直磐井子也」・「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻 河上娘蘇我馬子宿禰女也」と崇峻天皇を殺害したのが筑紫君葛子の分家で倭国王馬子の娘婿の皇子で、敏達天皇も蘇我氏の宮に婿入りしたのである。
そして、630年に豊浦宮から舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍」飛鳥に首都を遷して倭国の首都とし、「改脩理難波大郡及三韓館」と難波を唐の使節を迎えても恥ずかしくないように鴻臚館と同じような施設に改修し、舒明天皇四年「唐國使人高表仁等到干難波津」と唐使節を迎えたが、俀國は昼夜で政務を切り分け問題が無かったが、『旧唐書』「與王子争禮 不宣朝命而還」と倭国は実質天皇の皇太子と最高権力者で倭王の大臣が存在するので、唐が考える礼と倭国が考える礼が異なり、交渉がうまくできなかった。
そのため、大化二年「新羅而使貢質遂罷任那之調」と人質を差し出したが失敗し、任那経営を諦めて、大化三年正月「高麗新羅並遣使貢獻調賦」と、新羅と和解して『旧唐書』「至二十二年 又附新羅奉表 以通起居」と647年に新羅を仲介に唐と国交を再開し、白雉五年「褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物」のように唐と友好関係を築くことができた。
しかし、蘇我氏は『梁書』「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と官位を高句麗から取り入れたり、『古事記』「科賜百済国、若有賢人者貢上・・・即論語十巻・千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」のように百済・高句麗と関係が深く、新羅は倭の攻撃を史書に書いたように、倭ではなく、物部氏・尾張氏日本と友好的であったため、倭と敵対的なのか、658年に百済が滅び、その復興に倭と高句麗が同盟して唐・新羅連合と戦うことになった。
そして、『先代旧事本紀』「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と物部氏の血を引くことで、『日本書紀』皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿。擬大臣位」と紫冠を授かり入鹿が大臣となったと記述しているが、「復呼其弟曰物部大臣」と物部氏でもあるので弟を物部大臣と呼び入鹿は大臣の上司天皇で、その入鹿が664年『日本書紀』天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と薨じ蘇我王朝が崩壊した。

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