2019年2月8日金曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝1

 『古事記』までは純粋な紀伝体の史書で、どちらかと言えば事典に近かったが、『先代旧事本紀』からは編年体に近い紀伝体の史書となり、著者は馬子なので蘇我氏中心の物部王朝史を記述している。
そして、物部氏は大神を守ってきた家系なのだから首都の宮変遷の記録を持っており、その記録に蘇我氏の男系の先祖の葛城氏・平群・巨勢・蘇我氏の系図を当てはめ、更にその同時代に権力を有していた王の記録を付加し、家系を記述した姿が『先代旧事本紀』である。
しかし、『先代旧事本紀』は『日本書紀』に比べて圧倒的に時事情報が少なく見劣りする史書であるが、推古天皇は現代史で現在の王が統治している宮の歴史で、しかも、記述者自身が統治しているのであるから、詳細に記述することになる。
『先代旧事本紀』の記述方法は、一つの事件を記述するのに、似た事件の記録を流用して記述しており、それは、『古事記』や『日本書紀』の前段階の史書などを踏襲したことによるのだが、『先代旧事本紀』は流用という技法を使い、唐との外交を俀国の蘇因高の説話を流用した。
馬子にとっては、それほど悪意があるわけではなく、古代の常識的方法で記述したのであり、『先代旧事本紀』「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩 卅九年當于泊瀨部天皇五年」と崇峻天皇まで39年間は同じ家系の人たちが統治して宮を遷しただけだと記述している。
推古天皇40歳で天皇即位で36年間在位は考えられず、皇后即位から36年としたが、それでも、皇后に26歳で就くのは高年齢過ぎるので、ある天皇家が39年続いたと考える方が理に適っていて、その推古天皇を593年に遷都した宮に当てはめ、なぜなら、推古天皇は稲目の宮の住人だからだ。
そして、『先代旧事本紀』の皇太子が馬子に書かせたように、「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」と『日本書紀』の記述者が蘇我氏で推古・舒明紀にもこの記述法は適応されて乙巳の変まで記述された。
そして、天武天皇は同じ手法の『日本書紀』と俀国の外交資料や王朝内記録を記述した『日本世記』を記述し、『日本書紀』は推古天皇・舒明天皇(乙巳の変を含む)が記述されていた巻末へ、皇極天皇・天智天皇(白鳳・斉明・天智)、そして天武天皇の大化5年までの664年から699年まで記述した。
天智天皇を分けた理由は、天智天皇が宮を難波・飛鳥浄御原・近江と宮を遷ったからで、その『日本書紀』に舎人親王が藤原宮・平城京を追加し、712年に天皇の璽を手に入れて正式に皇位に就くまでを記述したが、文武天皇は飛鳥浄御原天皇の時に政権を奪取したので、新王朝は697年に文武天皇が成人して中臣家を継いだ時を新王朝元年とさせたのである。
そして、白鳳を白雉として後ろの大化を白雉の前に追加して白鳳すべてが後ろの難波長柄豊崎の岡本宮天皇を3つに別け、皇極天皇の前にあった孝徳天皇即位前紀を皇極天皇の後ろに置き換え『日本世記』の記事を入れ込み時系列の『日本書紀』を完成させた。
大化5年までの後ろの飛鳥浄御原宮を首都とする宮の紀伝体記事だった『日本書紀』なら、矛盾がありながらもそれなりに意味が通る史書であったが、持統天皇11年を697年に指定してしまったために、偶然隋書と唐との外交記事が合致してしまって推古天皇イコール『隋書』「多利思北孤」とされ、男女の違いから「多利思北孤」イコール聖徳太子と後代の歴史家を間違えさせた。
これは、稲目の宮のある場所が首都の時、王が稲目・馬子・推古・多利思北孤・聖徳太子・目・守屋などが存在し、全てまとめて実際は530年代に在位した推古天皇と見做して記述したのである

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