2019年1月9日水曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝6

 前回は321年即位の神功皇后を述べたが、応神天皇は390年即位と396年即位の応神天皇が存在する。
応神天皇三年「遣紀角宿禰羽田矢代宿禰石川宿禰木菟宿禰嘖譲其无禮状由是百濟國殺辰斯王以謝之紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」は392年で武内宿祢の子たちが辰斯王を殺し、阿花王が即位しているので、この390年即位の応神天皇は武内宿祢のようだ。
応神天皇十六年「百濟阿花王薨」で405年と390年即位だが、応神天皇二五年「百濟直支王薨」は420年で396年即位となり、これは「百濟記云木滿致者是木羅斤資討新羅時娶其國婦而所生也」と百濟記の資料で割り当てている。
百濟記が異なる王を記述して、それを雄略天皇が割り当てたが、百濟記に絶対年代が解る記述が無く百濟記が書いた王を応神天皇と在位年数をそのまま割り当てた結果で、応神天皇「卅九年春二月百濟直支王遣其妹新齊都媛以令任」が428年でも434年でも420年に薨じた直支王が命令できないことから解かる。
直支王の在位期間の405年から419年の間に39年目を迎えた王は尾張王朝の難波宮で、葛城王朝に崩壊させられた最後の王で尾治弟彦の父尾綱根を襲名していた最後の王だと思われる。
仁徳天皇四一年「遣紀角宿禰於百濟・・・訶責百濟王時百濟王懼之・・・附襲津彦而進上」は応神天皇十六年「率弓月之人夫與襲津彦共來焉」の405年記事と新羅・百済の違いがあるが同時期の記事に思われ、応神天皇十六年「遣平群木菟宿禰的戸田宿禰於加羅仍授精兵詔之曰襲津彦久之不還」と仁徳天皇十二年「饗高麗客於朝・・・明日美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰」と仁徳天皇十二年に名を賜った的戸田宿禰が それより前の応神天皇十六年に宿禰を名乗っている。
すなわち、405年が仁徳四一年なら39年は403年で直支王は王と呼ばれる存在であり、2代目仁徳天皇なら405から419年に入る可能性があり、当然、紀角宿禰が最前線で活躍しているのであるから武内宿祢の世代が大王の時代で390年に即位した応神天皇であることが解る。
武内宿禰は景行天皇三年「紀直遠祖菟道彦之女影媛生武内宿禰。」・景行天皇二五年「遣武内宿禰令察北陸」・景行天皇五一年「是日命武内宿禰爲棟梁之臣」・成務天皇三年「以武内宿禰爲大臣也」・仲哀天皇九年「是皇后及大臣武内宿禰匿天皇之喪」・神功皇后摂政元年「命武内宿禰和珥臣祖武振熊率數萬衆令撃忍熊王」・神功皇后摂政五十一年「百濟王亦遣久氐朝貢於是皇太后語太子及武内宿禰曰」・応神天皇七年「時命武内宿禰領諸韓人等作池」・仁徳天皇五十年「天皇於是歌以問武内宿禰曰」と出現する。
そして、允恭天皇五年「因以逃隱武内宿禰之墓域」と武内宿禰は薨じた後でおそらく反正天皇元年「當是時風雨順時五穀成熟人民富饒天下太平」と武内宿禰の政治を褒めたたえ、反正天皇五年「天皇崩干正寢」と眠るように410年に崩御した王を讃え、この王が葛城王朝を打ち立てたと思われるが、更に次代の武内大臣と思われる、応神天皇二五年「百濟直支王薨」の420年の葛城王がいる。
すなわち、大帯日子も若帯日子も帯中日子も息長帯日売も品陀和気も大雀も全て同時代の王だったことがわかり、古事記に書かれない、武内宿禰の家系に関係ない事柄は尾張王朝の記事で、それ以外は葛城王朝の記事であったことが解る。
このことは『古事記』も同様で、しかも、仁徳紀が87年、神功紀が69年、成務・景行紀が60年の在位期間にもかかわらず全て51年までしか出現せず、景行紀で誕生しているのだから大帯日子の治世中の事と解り、それぞれの王に関する事柄がそれぞれの王に記述され、若帯日子や息長帯日売の治世は大帯日子より20年以上後に始まったのであり、神功皇后摂政五五年「百濟肖古王薨」となる321年が初代武内宿禰誕生なのではないだろうか。

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