2019年1月18日金曜日

最終兵器の聖典 平群・巨勢王朝・神皇王朝10

 仁賢天皇から『古事記』が記述されないため分析から外れるが、『日本書紀』と『先代旧事本紀』は同一人物が立場を変えて、若しくは同時代に大臣と呼ばれた二人が記述したと考えるられる。
そして、結果として共に2代ズレているが、それは、最終的に世間で受け入れられただけで、『日本書紀』も『先代旧事本紀』も宮を1世代とした紀伝体で記述されて、そこに当てはまるいくつかの大王を当てはめただけで、元明天皇が間違えさせようと朱鳥の元号を入れ込んだ結果である。
従って、武烈・継体天皇の名前が巨勢氏か蘇我氏か不明であるが、継体天皇二四年「降小泊瀬天皇之王天下」と道臣が述べているので、小泊瀬に天皇がいて、皇子の名前としては可能性が高く、「男大迹」も姓が無く「男人」と名も似て、退位した、もちろん殺されたのだろうが、小泊瀬天皇の皇子が 男人を襲名して巨勢氏をまた名乗った。
巨勢氏は白雉四年「學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子」と豊国王で、大化五年「小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣」と蘇我氏の協力者で、小泊瀬天皇の子たちを庇護して葛城王家の筆頭に躍り出たと思われ、『日本書紀』崇峻紀までと『先代旧事本紀』を書き『古事記』を完成させた蘇我氏は「男大迹」まで残したのだろうか。
継体天皇二四年「大彦申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者」と道臣が持ち上げ、「 朕承帝業於今廿四年」と「繼體之君」が述べているが、この「繼體之君」が即位したのが507年では有り得ない。
なぜなら、この「繼體之君」は継体年号を517年に建元しているのであるから、「繼體之君」は繼體天皇と呼ばれていたと考えるべきで、繼體天皇が即位したから継体年号建元と考えるのが筋だ。
もし、「繼體之君」がすでに即位していたら、継体年号以前の元号が残っているはずで、繼體天皇と呼ばれているのに元号名が思いつかないから「継体」にするなどというのは、繼體天皇を冒涜している。
したがって、繼體天皇は517年即位で540年に欽明天皇元年「遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮」と遷都した時の祝賀で544年まで継体天皇二五年「或本云天皇廿八年歳次甲寅崩」と存命で、516年継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨」が巨勢王朝の終焉だ。
継体天皇二五年「又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」の記事が516年記事か継体天皇二四年「降小泊瀬天皇之王天下」と降伏した小泊瀬天皇が518年のことか531年のことか不明だが、531年まで巨勢王朝の宮が続いているので531年の可能性が高い。
そして、継体天皇二三年「巨勢男人大臣薨」が516年ならこの王朝の天皇は594年即位となって、『梁書』「名國王爲乙祁」で乙祁天皇ということが証明され、長男が13歳に達していないため、実質皇太子になったのが巨勢男人大臣、そして、507年長男が13歳になったので、天皇と同等の皇太子で巨勢男人も皇太子小泊瀬も大王である。
『先代旧事本紀』「神皇王朝」と呼ぶ武内宿禰の王朝は初めて史書を作成し、大国王・中国王・若国王・品陀和気・大雀・伊耶本和気王そして尾張王朝の天皇水歯別を順に並べた紀伝体の史書を作成したが、それは、互いに重なり合う事績が記述され、それぞれの王は宿禰と呼ばれた。
若国王武内宿禰はもちろん、長男襲名で何代も続き、それらの王の子どもは二代目も三代目も幾代目も全て兄弟で、その中に襲津彦・紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰がいて、これらも長男が襲名相続する。
その、武内宿禰の氏族が争奪戦で皇位を奪取しあったのが『先代旧事本紀』「神皇王朝」、そして、『梁書』が言う「扶桑国」である。

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