2026年7月31日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  名を継ぐ3

  神武の妃として、もう一人の女性が登場する。「伊須氣余理比売」――『日本書紀』では「五十鈴依媛」。五十鈴媛の妹と紹介されるが、『舊事本紀』を丁寧に読めば、兄妹は「一男一女」。つまり、五十鈴媛に妹がいないので、五十鈴依媛は実の妹ではない。では、彼女は誰だったのか? おそらく、天日方奇日方の娘。三島の女王・五十鈴媛の姪にあたる。天日方奇日方の子は、吾田都久志尼と跡取りの五十鈴依媛の兄妹。

二代目の奇日方は吾田都久志尼、妃は賀牟度の娘、神門、すなわち、御門の家系。神武朝廷の姫、婿入りして神武天皇に。だから、天日方奇日方は吾田氏を名乗って吾田都久志尼、妹は分家筋の五十鈴依媛になる。この五十鈴依媛は、次代の王、綏靖天皇の皇后。神武皇后は娘達も五十鈴媛。だから、五十鈴依媛は()姉妹。五十鈴依媛の名を持つのは、分家だからだ。

もう一人の姫、吾平媛。吾田小椅君の妹とされる彼女もまた、吾田王家の娘。その子が手研耳。『日本書紀』でも神武天皇の子? けれど、手研耳は神武崩後3年間政治を担ったとされるので天皇の姿に重なる。『古事記』では、手研耳が妃とした五十鈴依媛。つまり、彼こそが『古事記』の神武天皇・『日本書紀』の綏靖天皇にあたる。神武天皇火火出見の従姉妹の子が手研耳。綏靖世代だ。

そして、吾田都久志尼と御門の姫の娘、渟名底仲媛は、安寧皇后となる。王位継承の流れはこうだ。

初代:神武(2代目火火出見) → 五十鈴媛(本家)に婿入り

2代:綏靖 → 本家が従妹の五十鈴依媛(分家)に婿入り

3代:安寧 → 分家が御門の娘・渟名底仲媛(再び本家の分家)に婿入り

男児は、本家と分家の姫に互いに婿入りし、名を受け継ぎながら、王統を維持していく。名とは、ただの呼び名ではない。それは、家の地位と記憶を表す称号。王家の誇りで、家そのものの象徴。古代王権は、血だけではなく、名をも受け継ぐことで家系を守った。

2026年7月29日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  名を継ぐ2

 


 

『古事記』では、彦火火出見という名を持つ人物は一人。本名は火遠理。しかし『日本書紀』では、彦火火出見という名が神武天皇にまで引き継がれていく。では、その「名」を継いだ者たちは、どんな婚姻の流れの中にいたのだろう? 瓊瓊杵の子の火遠理の兄弟・火闌降は、吾田小橋君の祖。その子が吾田小橋君を名乗る。天皇火火出見が瓊瓊杵の政敵の大国主の孫娘の五十鈴媛を妃に。瓊瓊杵と大国主、火火出見と火闌降と事代主が同世代。次の世代が五十鈴媛と小橋と天皇火火出見。しかし、火火出見は吾田邑の吾平津媛を妃に。

もし、この吾平津媛が事代主と同世代ならつじつまが合う。すると、吾平津媛の子は2代目火火出見・神武天皇、五十鈴媛を皇后にする。神武天皇は吾田君の男系当主、兄弟が吾田小橋君、火遠理の子の葺不合の従兄弟、若御毛沼が小橋君の妹阿比良比賣の夫。他に火火出見がいるから火火出見でないのは当然。葺不合と若御毛沼が同世代ではないとつじつまが合わない。そして、確かに母は姉妹で同世代。世代の流れが、こうしてつながる。

吾田津媛の娘は吾田津媛、それが何代も。婿はいつも瓊瓊杵。子はいつも火火出見。火火出見は何時も海神の娘に婿入り。海神の子は吾田君の娘に。最後の火火出見が五十鈴媛に婿入り。神武天皇の誕生だ。当然、その見返りに、吾田君は五十鈴媛の兄を婿に迎える習わし。だから、五十鈴媛の兄の名は阿田都久志、吾田君だ。代わりに、分家の阿比良媛が海神の子を迎える。

海神は吾田皇子を婿に迎えたので、見返りに、吾田君に婿入りするのが習わし、吾田君は五十鈴媛に婿入りしたから、見返りに五十鈴媛の兄が婿だ。火闌降が火遠理の義兄・豊玉媛の兄・豊玉彦、五十鈴媛の兄・天日方奇日方が小橋君ならば、とても相応しい。

2026年7月27日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  名を継ぐ1

 「神武天皇の幼名は〝彦火火出見″」、そう記憶している人も、きっと少なくない。しかし、少しだけ神話の奥へと足を踏み入れてみると、その名は、もっと前から語られていた。彦火火出見、それは、天孫・瓊瓊杵の子。山幸として知られる皇子。海神の娘・豊玉姫に婿入りした、あの人物。そして、神武天皇もまた、彦火火出見と名乗る。名が重なる。偶然か? いいや、そこには、古代王権の仕掛けが潜んでいる。

古代の王位継承は、ただの親子の血筋ではなかった。同じ氏族の姉妹に婿入りする婚姻の「習わし」。そして、王家の名、名跡を代々「引き継ぐ」習わし。それらが、王統を紡ぐ糸となっていた。瓊瓊杵は、大山津見神、吾田氏の姉妹、木花開耶姫と磐長姫に婿入りする。木花開耶姫との間に生まれたのが、初代の彦火火出見。彼は吾田氏の跡取りでもあり、兄弟の火闌降もまた、吾田君の祖、同じ家の継承者だ。

やがて彦火火出見は、海神の娘・豊玉姫に婿入りし、その子が葺不合(ふきあえず)。そして葺不合は、豊玉姫の妹・玉依姫(たまよりひめ)に婿入りする。その間に生まれたのが、神武天皇。不思議なことに、彼もまた、吾田邑の娘、すなわち、吾田氏に婿入りして彦火火出見と名乗る。つまり、この名は、ただの固有の名ではない。それは、王家の名跡。称号のように、繰り返し継がれる名。王は、本家と分家の姉妹家系に交互に婿入りしながら、名と血を重ねていった。名とは、家の記憶。名とは、王統の証だ。

2026年7月24日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 ~五人の姉妹と百年の宮~2

  景行天皇の妃・八坂入媛。『古事記』では〝妾腹〟とされる吉備兄彦・高城入姫などが、『日本書紀』では〝皇后八坂入媛の子〟になっている。彼女は、多くの皇子の母とされている。けれど、世代を越えて、彼女の名が、三代先の皇后や義母にまで及ぶ。それは、同じ名を持つ宮の家系の女性たちが、代々妃となった証ではないか。「八坂入媛」とは、個人の名ではなく、宮に属する女性たちの称号だったのかも。

「一代で百年生きた天皇」は? それは、現実の寿命ではない。義子や継承者を含めた複数代が、一人の「天皇」の名に編まれていった。天皇とは、人名ではなく、王統の単位だった。この制度のもとでは、王統は、個人ではない。家と宮が長く続くこと。皇后の名が変わらないのは、その地位が、宮に住む皇后の姉妹や従姉妹たちに受け継がれたから。天皇の名が変わらないのは、皇后たちに婿入りし、家名を襲名したから。そして、そこから外れた皇子たちは、「○○臣」「○○連」として分家し、地方豪族の始祖となっていった。

天皇の子に、女性の名が少ないのはなぜか? それは、記されなかった女性たちが、皇后として、次の代に組み入れられたから。つまり、姉妹婚は、王統を支える政略の中核。五人の妃は、家を血統に接続する布石。皇位の継承とは、宮によって紡がれること。思い出してほしい。神功皇后は100歳、170年から269年まで続いた宮。熊襲梟帥の分家の火国造・市鹿文から壹與までと重なる。

天皇とは、一人の偉人ではなく百年にわたる、一つの家系の記録だった。

2026年7月22日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 ~五人の姉妹と百年の宮~1

    古代の王は、姉妹をまとめて妃にしていた、そんな話を聞いたとき、あなたは神話の幻想だと思うかもしれない。しかし、それは夢物語ではない。

記録に刻まれた、制度の痕跡。婚姻が、政治だった時代の話だ。『後漢書・東夷伝』は語る。「大人皆有四五妻 其餘或兩或三」。王たちは、四人、五人の妻を持ち、身分が低くても、二人、三人。

『三国志』『梁書』もまた、同じ調べを奏でる。「大人皆四五婦下戸或二三婦」「貴者至四五妻 賤者猶兩三妻」それは、ただの贅沢ではない。

身分が低くても複数の妻。血と家と宮をつなぐ、政のかたちだった。身分が低くても複数の妻。血と家と宮をつなぐ、政のかたちだった。瓊瓊杵は、木花開耶姫と磐長姫の姉妹を妃に迎え、磐長姫を返した。その報いとして、命の短さを得たという。通常は返さないからだろう。これが二人、三人。

けれど、ふと疑問がよぎる。実の姉妹が四人、五人も揃う家など、そうあるだろうか? それが偶然でないなら、そこには、仕組みがあったのでは?鍵を握るのは、「宮」という単位。一つの宮に住まう女性たちが、揃って妃となる。そして次の代では、そこの娘たちに婿入りする男子が選ばれる。その繰り返し。だから、百年、皇后の名が変わらない。それは、同じ宮から、皇后が出続けていたから。そして、人数が多くなると分家を造る。その繰り返し。だから、百年、皇后の名が変わらない。それは、同じ宮から、皇后が出続けていたから。宮の姫すべてが皇后だったから。

応神天皇は、「品陀真若の三姉妹」を妃に迎えた。垂仁天皇は、「丹波道主の四姉妹」を。『古事記』は四姉妹と記すが、六姉妹を挙げている。そして、二人は返され分家を造った。これは、恋の物語ではない。姉妹(?従姉妹)を揃えて妃にすることは、家系ごと王権に取り込むということ。家を取り込めなければ、王権は長く続かない。命も、続かない。

鵜草葺不合は、叔母を妃にした。孝安天皇は、姪を。当然、同世代。それは、「従姉妹婚」という言葉では語りきれない。母の姉妹の娘たち、同じ家系の女性群。つまり、婚姻とは、血の交わりではなく、宮の連続性を編む技だった。

2026年7月20日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国神話が語る〝恐るべき東の民″3

  ()神を祀るという霊的な構造は、扶余族が侵入する以前の朝鮮にも息づいていた。高句麗、馬韓、辰韓、彼らもまた、鬼神を祀る民だった。箕子朝鮮の箕子は鬼子? 天子? のこと? 音の響きが重なるのは、偶然だろうか? 鬼国の住民は自らを鬼などとは言わないはず。鬼国の人は足を延ばして開いて座った? 箕(ふるい)にかけた?

そして、その上に立つ者がいた。天神を祀る「天君」。天君が支配した鬼国は、やがて邪馬台国の名のもとに統べられる。『山海経』の時代から『三国志』の時代まで、「天(あま)」にいた王に従っていた国。俀王の氏は阿毎(あま・天)、阿輩雞彌(?吾は君)、「君」と呼ばれた。

卑弥呼は、神と交信し、その言葉を民に伝え、政を導いた。中国から見れば「鬼道の女」。けれど、日本にとっては、神の声を聴く者。霊の力によって統治を導く、神の媒介者だった。つまり、鬼国とは、霊威をもつ土地の名。鬼道とは、神と通じる祭祀の技。鬼神信仰とは、日本と朝鮮に共通する、祖霊・地霊への祈り。「鬼」とは、恐怖ではない。それは、神秘と畏敬の名。

そして、その鬼を従えた魔。中国では、天君が、周朝の頃まで恐れた悪魔と同じ民族・魔だったことを忘れてしまったのだろうか。天君は天子を戴く漢民族にとって、どう映ったのだろうか? 朝鮮人も中国の天子を天君と見做したか? そして、中国が北朝・隋になると、天の価値が値崩れした。日本の阿毎雞彌を日本人は無礼にも、「日出所天子」と言っていると。

2026年7月17日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国神話が語る〝恐るべき東の民″2

  『魏志倭人伝』には、こう記されている。「鬼国」、「鬼奴国」。それは、架空の名ではない。倭の霊的な中心地。祭祀の場。神々と語らう場所。中国の役人たちは、記録に触れたとき、『山海経』の記憶を呼び起こしたのかもしれない。「ああ! あの恐るべき東の〝鬼国″の民が ここにもいる」

けれど、その「鬼」とは、日本の神々の音が、漢字に変換された姿だった。たとえば……「あま」「くま」「やま」「しま」の「ま」……魔。「かみ」の「み」……魅。「ち」……魑、句句廼馳、野槌、その音が、中国人には魔や魑や魅が妖怪の魍魎、「魑魅魍魎」と響いた。日本が語る神々の音が、中国には、恐ろしい妖怪として届いた。そして、「鬼」と記された。それに対して日本人は、漢字の鬼を「間」で祈る敵の巫女王と理解した。

しかし、『日本書紀』には、朝鮮の使者が日本を「貴国」と呼んだとある。「鬼」の国ではなく、「気高い国」。九州には基肄城跡があり、畿内には木国・紀伊国があった。人を食らう鬼国ではなく、やってきた男子を篭絡して返さなかったのではないか? さらに、隠岐・壱岐、おそらく、対馬も津岐と呼ばれた? 「鬼」ではなく、「木」や「岐」。それは、自然に宿る霊の名だった。日本の神々は、木、水、風、火、山、海、川。それぞれに宿る霊。清らかで、畏れをともなう存在。だからこそ、敬い、祀る。

2026年7月15日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国神話が語る〝恐るべき東の民″1

  日本の神を中国人は魔物、八岐大蛇や鳥獣の様だと言った。どうしてそんなに畏れたのか?

渤海の東、海の果て。霧の向こうに、「貳負神」という民がいた。『山海経』は、彼の国を「鬼国」と呼んだ。「食人從首始」、人を食らう者たち。「人面蛇身」、人外の民。恐怖とともに記されたその名は、果たして、真実だったのか。しかし、思い返してほしい。中国の筆が「鬼」と記すとき、それは、理解できない者への名づけだったのでは。

異質なもの。神秘なもの。自らの世界の外にある、もうひとつの世界。『後漢書・東夷伝』には、こう記されている。「高句麗 馬韓 弁辰……皆 鬼神を祀る」、鬼神それは、怨霊ではない。祖霊、土地神、風の声、水の囁き。自然とともに生きる、霊的な信仰。中国から見れば、理解できない異なる宗教世界。けれど、そこに宿るのは、人が神とともに歩んだ記憶だった。

卑弥呼、「鬼道につかえ 能く衆を惑わす」、そう記された女王。しかし、惑わしたのではない。彼女は、神の声を聴き、その言葉を民に伝えた。倭人にとって、彼女は巫女王。神と人のあいだに立つ者。霊威によって政を導く、媒介者だった。「鬼道」とは、呪術でもまじないでもない。それは、神と通じる祭祀の技。風を読み、火を鎮め、山の怒りを鎮めようとする、祈りのかたちだった。

2026年7月13日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 「天皇」は誰?3

  神武の別名、豐御毛沼。その「豐」は、筑紫の豊国=豊日国とのつながりを思い起こさせる。豊国と思われる丈夫国? 海神(わたつみ)の姫・豐玉姫の孫、妹の子、それが、神武天皇だった。それは、三史とも同じ。海神の末裔が畿内にやってきたはずなのに、それぞれ違う王。名だけでなく、性格も異なっていた。

つまり――

『日本書紀』の天皇は、礼と王道の君子国の王

『舊事本紀』の天皇は、制度の周饒国の王

『古事記』の天皇は、交易に優れた大人国の王

それぞれの史書が語る「神武天皇」は、それぞれの王国の始祖だった。

今に伝わる「日本の起源」は、実は、ひとつではなかった。神武という名に込められたもの、それは、統一前の列島がそれぞれ語っていた、三つの起源神話の名残だった。そして、のちに統一した王権が、それらを一つに編み直し、〝日本の始まり″として書き換えた。

天皇は、どこの人だったのだろうか?「天皇」とは、かつて列島を支えた三つの王国が、それぞれの王を通して夢見た、理想の「王」のかたちだったのかもしれない。『日本書紀』は日向国の王が天皇になったと記すが出発地は不明。『旧事本紀』も生まれは日向国だが、出発は筑紫国。しかし、『古事記』にはまだ国では無い日向。「六合」の内の常神半島に「日向」が。それぞれの天皇は東征の出発地も時代も違うようだ。

2026年7月10日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 「天皇」は誰?2

   続いて。

■ 周饒国と『舊事本紀』

『山海経・海外南経』に登場する「周饒国」。その名に響く「饒」の文字、饒速日と呼ばれる王祖の名に、重なる文字。周饒国を見て『舊事本紀』は〝饒″の文字を使ったのでは? 『古事記』は「迩藝速日」、『古事記』を記した王朝は〝饒″の文字を使わなかった。そして、長髓彦の妹を妻とした饒速日。長髓彦の名は、隠岐風土記を基にしたと言われる『伊未自由来記』に記される隠岐王・奈賀命とよく似ている。そして、饒速日の子・可美眞手は、政大夫として、食国(隠州国)に賜姓された。この「政大夫制度」は、『舊事本紀』にしか登場しない政治の体系。そして、神祖、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊。狭の霧は狭という地域の神のよう。つまり、狭野として記された神武天皇は、周饒国の王統を継ぎ、制度を司る「政治の王」だったのかもしれない。

■ 大人国と『古事記』

そしてもう一つの国、「大人国」。船を造り、海を渡り、遠く大陸に市を持つ交易国家だ。『古事記』の冒頭に現れる、天之御中主。その「主(ぬし)」の音は、大人(うし)に通じる。主に『古事記』編者は大人国の大人を当てた。大国主、その名にも「ぬし」が。交易に長けた大人国の王の姿が、そこに見える。『山海経』を読んで、「おほ国」に大国の文字を振ったのだろうか。『日本書紀』は大国主を王と認めていない。いるのは王ではなく、大己貴神のみ。大己貴は宗像から越を動き回り、子を為した。舟で交易した姿を示し、宗像は丈夫国を思わせる。

2026年7月8日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 「天皇」は誰?1

『山海経』は4つの国があったと書いた。その王様はどんな人だったのだろうか。

私たちが「日本のはじまり」として知る物語、それは、三つの古代の書に記されている。『日本書紀』、『古事記』、そして『先代舊事本紀』。この三書に共通して現れるのが、神倭磐余彦皇。いわゆる〝初代神武天皇″と呼ばれる存在だ。

しかし、その名は、すべて異なっている。『日本書紀』では、彦火火出見。『古事記』では、若御毛沼/別名・豐御毛沼。『先代舊事本紀』では、狭野。これは、一人の王が多様に語られたのではない。むしろ、三つの異なる王統が、それぞれの〝始祖″を神武天皇と定めた結果なのでは?

視点を、もっと遠くへ。海の彼方に広がる神話の地、中国最古の地理神話書『山海経』。そこには、四つの国が登場する。そして驚くべきことに、その中の三国はそれぞれ、神武天皇の異なる姿と、奇妙に響き合っている。

■ 君子国と『日本書紀』

『山海経・海外東経』に記された「君子国」。冠を戴き、剱を帯び、礼と智によって国を治める理想の王国。孔子が憧れた「君子」の国、その理想が、ここに息づいている。日本に、「君」を名乗る人達がいた。「吾君」・「邑有君」と。その中に、吾田邑の吾平津媛の氏族が「君」の姓を持っていた。『日本書紀』の編者は、「きみ」に君子国の「君」を重ねたのかもしれない。史書は「きみ」に王の漢字を割り当てる。『日本書紀』にとって特別な王が君だ。そのように考えるならば、神武天皇とは、君子国の王の末裔。礼と王道を重んじる、理想の天子だったのかもしれない。同時代に生きた孔子も『山海経』も君子国と君子が違う国の事とは言わない。共通の国とその王だと思っている。

2026年7月6日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 日本列島は王国の海2

  君子国・丈夫国・周饒国。どの国にも、冠をかぶった王がいた。冠は、複数の国を統治する者の印。自国の民には不要でも、他国の民には、知らない王を見分けるために必要だった。冠は、越境する王の証だ。『山海經』は、日本に百以上の国々があると。その代表がこれらの国だった。

そして、君子国の南には、さらにもうひとつ。

■ 大人国――『海外東経』より

君子国の南、敦賀・若狭だろうか。舟を造り、海を渡り、中国大陸の蓋州近くに市を開いた国。また、日月が出るところに近い場所にも。関東での交易もこの国が? 更に粛慎国の北側に分国を持つ。彼らは「未開の人」ではない。「国引き神話」を持つ、海と技術を掌握した、堂々たる商業国家だった。

この列島の多様性は、中国の正史にも、くっきりと刻まれている。『漢書』地理志、倭人=百余国、東鯷人=二十余国。『後漢書』『三国志』、倭は三十余国に再編され、邪馬台国が盟主となっても、東と南の拘奴国が対抗した。『日本書紀』は大倭王を仲哀天皇と理解した。『梁書』に至っては、倭国、文身国、大漢国、扶桑国、女国。列島全体が、王国の密集地帯だった。

それぞれの国に、王がいた。冠をかぶり、剱を帯び、海の道を駆け、交易を行い、暦をつくり、政治をおこなう。それぞれの王国が、それぞれの歴史を持っていた。やがて、それらは統合される。 〝ひとつの日本″として語られるようになる。しかし、その前には確かにあった。列島全体を舞台にした、王国ラッシュの時代が。

そう考えると、古代の「天皇」とは何だったのか? 唯一の王ではなく、それぞれの王国に存在した、〝三人の天皇″だったのかもしれない。そして、そのうちの一系統だけが、歴史をまとめ、他を吸収し、〝日本″という名を持った。

2026年7月3日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 日本列島は王国の海1

    日本は神武天皇以来、いつも一人の天皇しか居なかった。人々は、そう片づけてきた。

しかし、推古天皇の時代。この列島は、まだ一つの〝日本″ではなかった。 それ以前、多くの国の王がいた。『隋書』が伝えるのは、倭、俀、そして秦王国。それぞれが異なる暦を持ち、それぞれが並び立っていた。

しかし、問い直してみたい。「その前は どうであったか?」、列島の記憶をたどる鍵は、中国古代の地理神話書、『山海經』。地図にも、歴史書にも残らなかった、そんな国たちが、そこには確かに描かれていた。たとえば、こう記されている。

「君子国在り 其北 衣冠帶剱」北に位置する君子国。冠をかぶり、剱を帯びた王がいた。冠と剱、それは、武力と統治の象徴。つまり、そこには〝王″がいた。『山海經』には、少なくとも三つの王国が記されている。『山海經』で冠を身に着けるのは日本以外、中国の苗民のみ。

■ 君子国――『海外東経』より

ふたつの海に挟まれ、陸地に接した半島の南。その地形は、能登半島の南、越前・三国に重なる。冠をかぶった王は、倭よりもかなり東にいた。儀礼と政治の国、静かなる統治の地。

■ 丈夫国――『海外西経』より

丈夫国の北には海に囲まれた島の国、さらに遠く北方には肅慎の地。〝丈夫″は、成人した男たち。軍事の香りが漂うこの国は、北九州、宗像か? 北に壱岐・対馬の島国がある。剱と冠を帯びた、力の王国。

■ 周饒国――『海外南経』より

剱を持たず、西に三つの島が浮かぶ地。隠岐の島後(於母島)に似ている。周囲に豊かな地を持つこの国は、交易に長けた、平和の王国だったのだろう。

2026年7月1日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  〝聖徳太子がふたり″3

  大連の記録が語る、並立する王権。『先代舊事本紀』には、こうある。推古二十二年、物部恵佐古に「大連」の姓を賜う。馬子大臣が病に倒れたとき、国を担った者。同時期、「贄古大連」という人物も登場。崇峻天皇の夫人と再婚したが、『書紀』には登場しない。なぜか? それは、異なる王朝が、二人の「大連」を任命していたからである。つまり、この時代、三つの王権が、並立していた。

馬子を中心とする、倭国系の王。

物部恵佐古や贄古を大連にした、秦王国系の政権。

法興帝と法皇を擁する、俀国系の仏教王朝。

それらは、同じ時間軸に並び立っていた。『日本書紀』は、それらをひとつに統合した。であるから、矛盾が生まれる。暦のズレ。死亡日の違い。それは偶然ではない。記録された矛盾ではなく、記録された痕跡だった。そして最終的に、勝者の系譜に属した〝ひとりの太子″だけが、「聖徳太子」として記憶された。しかし、本当は、もうひとりの太子がいた。いや、三人いたのかもしれない。

同じ時代に、同じ仏教に生き、同じ理想を掲げながらも、違う暦を使い、違う系譜に属していた。そして、歴史の統合のなかで、それらはやがて、〝聖徳太子″という像に吸収された。