2026年5月20日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 「三国志」は間違い?では、なぜ使う?2

  前項の続き。

 しかし、一方で、日本側の史書。『日本書紀』はこう語る。

「卑弥呼が女王になったのは、仲哀天皇の御代」

「その決定は、橿日宮で行われた」

つまり、日本の記録は、「卑弥呼は仲哀天皇の許しのもと、女王になった」、そう語っている。「邪馬台国は橿日宮だった」と。「卑弥呼は神功皇后だった」とも。そして、それは『後漢書』の記述とも見事に重なっていた。

桓帝・霊帝の後、189年以降。「大倭王は、邪馬台国に居た」と書かれたその文と、仲哀天皇の時代が、静かに重なっていた。『日本書紀』を編んだ人々は、中国の史書を、たしかに〝信じていた″。だからこそ、自らの記録とそれをつなげようとした。現代よりもずっと時代が近い彼らが、『三国志』も『後漢書』も、真剣に読み、邪馬台国を橿日宮と定めた。

であったら、もし、私たちも『三国志』を使うなら、「彼らがなぜ使ったのか。」、「どう信じたのか。」その姿勢を問わなければならない。『日本書紀』編者は距離も方角も日数も、まるごと使えば橿日宮に着くと考えた。それなのに、私たちは都合のよい部分だけを拾って、違うところは「間違い」と切り捨てる。それは、誠実な読者と呼べるだろうか。

逆に、史料を使わないならば、いっそ潔く手放すべきだ。考古学だけで語りつくす覚悟が要る。そうでなければ、議論はただのご都合主義にすぎない。であるから、問うべきは、「『三国志』は本当か? 嘘か?」ではない。ほんとうに問うべきは、「私たちは史書全体に どんな姿勢で向き合っているのか」、中国の史書の正しさは、計算でわかっている。日蝕の記録、95%以上の一致。ほとんど、正しい記録だった。

2026年5月18日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 「三国志」は間違い?では、なぜ使う?1

  邪馬台国は、どこにあったのだろうか?古代史最大の謎。時代を越えて、何度も語られ、何度も迷い続けてきた問いである。議論がはじまると、いつも聞こえてくる声がある。

「『三国志』なんて 矛盾だらけ」

「方角も距離も ぜんぜん合ってない」

「だから 信用できるわけがない」――

しかし、そう言うなら、こう問い返してみたくなる。だったら、なぜみんな今でも『三国志』を使っているのか? もし本当に信じられない史料ならば、もう頭から捨ててしまえばいい。考古学だけで勝負すればいいではないか。

たとえば、奈良県の纏向遺跡。炭素年代は卑弥呼の時代とぴたりと重なる。巨大な建築、濠、祭祀の痕跡、都と呼ぶにふさわしい規模と構造だ。「ここが邪馬台国だ」と言いたくなるのも当然。ではもう『三国志』は必要ないのでは? 行程も距離も捨ててしまって、考古学だけで完結させればいい。

纏向が邪馬台国だ、と言いたくなる気持ちはよくわかる。「邪馬台国は日本の首都大和でなければならないのだから?」と言っているから。ではもう『三国志』はいらない? そう、行程も距離も捨てて、考古学だけで、済む話ならば。

しかし、人はそれがなぜかできない。理由は、きっとひとつ。「信じたい」からだろう。

「卑弥呼は本当にいた」

「でも、魏志の距離はちょっと変だ」

「方角もおかしいし、たぶん間違いだろう」

「纏向宮は130年までだった。」

「神功皇后は纏向にいなかった。」

「ならば、纏向女王ではなくてもいいや」

「だから、僕の結論に都合よく細部を調整してしまえ」

そうやって、〝信じたいところだけを信じる″態度で、日本全国に邪馬台国。もはや史料批判とは呼べない。

2026年5月15日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 なぜ〝5%″日蝕を間違えるか2

  当時、朔日は天文計算ではなく、月の見え方による目視で判断していたようだ。昨日まで見えていた月が見えなければ「新月?」と推測し、それを政府が朔日として〝宣言″する。つまり、〝目視と告知″によって暦が定まっていた。唐の暦法使う天武天皇の時代の日本でさえも、雪の日には「雪不告朔」、雨なら「雨不告朔」と朔日を告げなかった。見えづらければ、暦も曖昧になる、そんな不確かさが、潜んでいた。

そして、問題はそこから起きる。30日晦日の次は間違えない。しかし、29日の晦日の次は?中央からの暦の告知が、地方に届かなかったら?あるいは、そもそも告げられないまま過ぎてしまったら?地方の人々は考える。「昨日が29日 ならば 今日は30日目の晦日……、しかし もしかして 朔日?」

そのまま晦日を朔日と間違え、翌日、ほんとうに起こった日蝕を、「今日(二日)の干支の日に起きた」と書き残してしまう。干支は合っている。でも、日付がずれている。さらに言えば、史書を書き残したのは中央の官僚や知識人たち。地方で実際に観測された自然現象を、中央が定めた公式カレンダーに合わせようとすれば、どうしても無理が生じる。正しい朔日の干支の二日と記した蝕を、暦に従って一日前の干支に書き換え朔日。晦日の干支の日蝕が完成。この微細な調整が、わずかな揺れとなって記録に。

これが、95%の裏側にある〝5%の誤差″の正体だったのではないか。しかし、それは、ただの失敗ではなかったと思う。それは、曖昧な空を見上げながら、「今こそ暦を定めよう」と歩み続けた人間の痕跡。日蝕が示したのは、完璧さではなく、完璧をめざして迷った人々の姿だったのでは。史書は〝すべて正しい″ものではない。が、〝正しくしようとした意志″が、たしかにそこにあった。

2026年5月13日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 なぜ〝5%″日蝕を間違えるか1

  たしかに、中国の史書に記された日蝕は、95%の確率で実際の天体の動きと一致していた。驚くべき精度である。しかし、だからこそ 残りの〝5%″は何故か。中には、計算の誤差を疑う人がいるかもしれない。しかし、この〝5%″の間違いには周期性無し。従って計算の間違いではない。15日の月食と間違えた1件を除くと、全てほんのわずか、1日の誤差である。しかし、その中には、完璧をめざした人々の営みが見えてくる。

日蝕は、新月、つまり朔日にしか起こらない。太陽と月と地球が、ぴたりと並ぶ、天空のほんの一瞬。 だから、史書の日付にたった一日のズレがあるだけで、それは〝誤記″とみなされてしまう。 しかし、 そもそも、朔日というのははっきり決められるものだったのだろうか? 鍵になるのは、古代中国の暦法、とくに〝朔″の扱い方である。

『史記』によれば、周の武王が「正朔」、国家の公式カレンダーを定めたという。陰暦が始まったのだろうか? つまり「この日を朔日とする」と、王が宣言する制度である。しかし、史書には、こんな言葉も記されている。

「言告朔也」――〝朔を告げる″

「不告閏朔」――〝閏月の朔は告げない″

「定正朔」 ――〝正しい朔日を決める″

朔日は、いつでも誰でも知っていたわけではなかった。 朔日、「月が見えない日」なんて空を見上げれば解るはず。

2026年5月11日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国の日蝕は、正確?2

 前項の続き。

日蝕と暦の一致は、計算だけでは成り立たない。天文学的計算は、グレゴリオ暦が発明された16世紀以降でようやく可能になるもの。それ以前に正確な日付を刻むには、実地の観測と記録が不可欠だった。天文学も、かつての日蝕の記述と照らし合わせて、ときに数式を調整しているほどだ。

ちなみに、『日本書紀』では、日蝕の記述が11件。そのうち9件が現代の天文データと符合している。正答率は約81%、やや精度は落ちるが、それでもかなりの水準といえる。また、朝鮮の史書『三国史記』は52件あって、正しかったのは46件、88%だった。

では、この数字が語ることは、何だろう?それは、中国の古代史書は、ただの伝説や寓話ではなかったということだ。宇宙が残した航海日誌とピタリ重なる。科学にも耐える高精度な史料だったのである。従って、神話に登場する「天」は、雲の上の幻想ではなく実在する海を95%の確率で指していた。

信じるに足る歴史を編むには、ただ壮麗な語りだけでは足りない。必要なのは、空想よりも、自然の証言。そしてその証言は、太陽と月が語ってくれる。神話を現実に引き戻すために、物語の中の「天」を、海のほとりへとつなぎ直すために。中国の史書は、詩として読み返されても、科学と対応させても色あせない、宇宙と語り合った記録装置だった。

2026年5月8日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国の日蝕は、正確?1

  神話と歴史のあいだは曖昧である。しかし、そこに一筋の光を差し込む方法がある。それは、誰にも改ざんできない、自然の記録、天体が刻んだ、動かしようのない証拠である。

とくに、日蝕。太陽・月・地球が、まっすぐに並ぶ新月のほんのひととき、世界が影に包まれる空の出来事である。この天文現象は、正確に「その日」を記録してくれる。従って、古代の史書に日蝕の記録が残されていれば、それを、現代の天文学で照らし合わせることができる。そして、幸運にも極東は陰暦、月の記憶を文字に残した。物語の中に差す、現実の一条の光。歴史と科学の共同作業が、そこから始まる。

そこで私は、中国や朝鮮の古代史書、『漢書』『三国志』『後漢書』『晋・宋・梁・周・陳・隋書』『新・舊唐書』に書かれた日蝕の記録を、一つひとつ洗い出してみた。その数、なんと327件。日付のズレを避けるため、ユリウス通日(絶対日数)という天文の暦換算法を用いて、

干支の循環(60日周期の暦符号・ユリウス数を60で割った余り)

朔日との対応(月の位置を計算)

十二中気(太陽の位置を計算)

中気の無い閏月の組み込みまで、一つの記録も見逃さないよう、徹底的に検証した。この暦は、論理的な陰暦。実際の陰暦は中気にズレがある。【※ユリウス数0はロンドン時間で紀元前471311日 正午(ユリウス暦換算)、現代の暦を遡ると西暦紀元前471211日 正午が起点。24時間で1加わる。】

すると、313件がピタリと一致した。正答率は95・7%。これは偶然ではない。統計的にも「有意差あり」と判断される、揺るぎない信頼性である。つまり、中国の古代史書に記された日蝕の多くが、実際に空で起きた出来事だった。

2026年5月6日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 暦のはじまり――羲和2

  「みそか(三十日)」、「おおみそか(三十一日)」どちらも、月の終わりを意味する言葉である。「ついたち(一日)」の対になる、ひと月のしめくくりだ。陰暦では、月の長さは29日だったり、30日だったりする。しかし、なぜ「みそか(三十日)」という言葉が定着したのだろうか? それはおそらく、ひと月の長さは30日ある、という〝太陽暦的な発想゛が、私たちの言葉の奥底に、根を張っていたからではないか。

人びとは、夏至や冬至、太陽が告げる節目を、見つめていた。もし、その節目が朔日と重ならなければ、ひと月を、30日に減らして調整する。そんな、融通のきく暦のつくり方をしていたのかもしれない。

日本人は立春から八十八夜など、決まった時から幾日目という習慣があった。秋分から九十一夜で冬至か九十二夜?なのか。それを数えたのではないか。『史記』にこうある。「冬至が甲子の朔日であれば めでたい」、10月の32日目? それとも31日目の冬至を11月朔日とする。古代の前700年から紀元700までに冬至が甲子の朔日は1日もない。つまり、「正統ではない」年は10月を30日、「正統な」年は31日。11月は30日までだったのだろう。10月は正統でない閏月。だから12月は31日の大晦日がある。この「大晦日」という名も、すでにその頃に生きていたのではないか?

閏年など全く関係ない。一日のズレは夏至や冬至毎に調整した。年1回だけ前の偶数月、特に10月は晴れの可能性が高く、10月を30日にするか31日にするか。あとは交互に30日と31日。これはもう太陽暦そのものである。

そして、そんな暦を組み立てた記憶が、今も息づいている。暦はただの数字ではない。〝海の民たち″の知恵だ。彼らは、空を見上げながら、実は、足元にある季節を感じた。

2026年5月4日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 暦のはじまり――羲和1

暦は誰が最初に創った? 空を見上げて、季節を感じて、時間に名前をつける、人間的で、詩的な営み。その起源をたどると、中国最古の歴史書『史記』にあった。「帝堯本紀」の一節には、「歳三百六十六日以閏月正四時」一年を366日とし、閏月で季節のズレを整える。

「閏」は「多い」の意味もあるが「正統ではない」の意味だろうか? これは、古代中国に太陽暦が生まれた瞬間を記した、とても重要な記憶である。そしてその暦つくりを任されたのが、ひとりの女性、その名は、羲和である。彼女は、太陽の動きを観て、移り行く季節を感じ、人びとの暮らしに、春や夏・秋・冬という名を贈った。時間を司る「一年」という器に、四季を発明した。

しかし、驚くのはその名前よりも、彼女の「出身地」だ。『山海経』には彼女の住まいが「大荒東」や「大荒南」と記されていた。それは中国の東、海の向こう、南九州や奄美、四国、紀伊半島の南岸など、日本列島の南の海辺を示しているようだ。羲和は、そこに住む〝海の民″だったのかもしれない。しかも『山海経』では、彼女が「帝俊」という神の妃。帝俊は九州の三身国を生んだ

つまり、太陽のリズムを観察して、暦という「世界の秩序」を編み出した女性は、山東半島から見た東の海、黄海のはるか遠い向こうにいた。おそらく、その記憶は、列島で引き継がれている。

『史記』に記された暦のしくみ、「366日+閏月」という制度は、現代の太陽暦に驚くほど近い精度を持っていた。季節のたった1日のズレを、太陽や星や風だけで見極めるには、高度な天文学の感覚と観測の技術が必要だ。その技を持っていたのが中国の〝海の向こうに住む女性″だったというのである。そして、その記憶は、今もわたしたちの言葉の中に、残っている。

 


2026年5月1日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国史書を信じられるか?2

  日蝕の日付は、「干支」で刻まれていた。「甲子」から「癸亥」まで、60通りの組み合わせで、時を刻む。一見すると、中国独特の記号のようにも見えるが、日本語の音と不思議なほど馴染んでいた。

「酉(ゆう)」は日本語の「とり」のこと? 「子()」は〝こども″、ねずみの「ね」と読もう。このように、音の重なりから、自然に解けていく。もしかすると、日本語側にはすでに〝きのえのね″という言葉があって、それに漢字〝甲子″を当てはめただけだったのかもしれない。日本人は、一百七十九萬二千四百七十餘歳を数えた。適当でよかったら、百萬歳で十分である。「木火土金水」はみな日本の神、金()は河? 水()は海? 「ひ・ふ・み・・・」、兄は右、弟は左、百まで数えられる。

しかし、ここで見逃してはならない〝ズレ″がある。日蝕の日付は陰暦という幸運に恵まれ、新月の日が記録されたが、中国の暦には、「晦日」と「朔日」が、混同されることがあった。本来、新月、つまり 朔日にしか日蝕は起こらない。しかし、中国ではこのふたつが、しばしば同じものとして書かれていた。ひと月が30日で終わることもあるから。30日が晦日、小の月29日の次は晦日が朔日。日付にズレが生まれてしまう。「晦日」を30日と呼ぶのは日本。中国は? 太陽暦の名残?

日本では「晦日」と「朔日」をはっきり区別していた。「つごもり」と「ついたち」として、別の概念として定着していた。それは、日本独自の、驚くほど正確な暦感覚の証だ。従って、問いはこう変わる。「中国の暦って 本当に正しい?」、「それとも、日本の暦のほうが 精密だった?」、どちらが〝正しい″かは、言葉では決められない。天体の動き。月の満ち欠け。蝕の発生と日付の記録。それらを照らし合わせたときに、ようやく〝確かなもの″が見えてくる。

言葉は、幻想を生み出すことができる。しかし、太陽と月の歩みは、どの時代でも嘘をつかない。だから、歴史にとって「暦」とは、信じるための羅針盤。その羅針盤が指す先に、私たちがまだ知らない、ほんとうの歴史の姿が眠っている。

2026年4月29日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 中国史書を信じられるか?1

  「天って 空の上のことではなかった」それは、海だった。壱岐、対馬、隠岐小さな島々が連なる。どれも「天(あま)」という音を持っていた。つまり、そこは神々が現れ、行き交う神聖な場所。〝アマ″の世界が、海の上に広がっていた。

この感覚は、日本だけのものではなかった。中国側もまた、東の海を「六合の間」と呼び、神霊が生まれる場所として描いた。ただ描かれた神々の姿は、ずいぶん違って見えた。中国の神話に現れる〝異国の神″たちは、「八首人面蛇身八足八尾」、鳥や獣のようで、どこか異様、恐れを抱かせる鬼の心を持つ〝魔″の姿を見た。日本で八岐大蛇に込めた恐れも、根っこでは、きっと繋がっていたのだろう。もしかしたら、それは八人の王、八つの国の連合、あるいは、入れ墨や鎧の意匠を象徴していたのかもしれない。

一方、『日本書紀』にはこんな言葉が記されている。「天照大神 六合の内を照らす」、中国が〝神々の誕生の海″と見ていたその水面を、日本では〝神が治める領域″としてとらえていた。だからこそ、「天」や「六合」という言葉が、海を越えて運ばれた。同じ海、同じ記憶。ただ、語られる声が少しずつ違っていた。

ここで、「中国の古代史書って 本当に信じられるのか?」、神話は言葉で描けるが、歴史は言葉だけでは足りない。遺跡が残っていても、そこに〝正解″と書かれた看板が立っているわけではない。必要なのは、動かしようのない〝現象″。たとえば、日蝕だ。中国の古い史書には、驚くほど多くの日蝕の記録がある。しかも、ただ「空が暗くなった」という記録だけではなく、きちんと日付が添えられている。

2026年4月27日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 日本の神話の「天」2

肥後から六合の間を通って北陸まで、聖人は通った。たとえば、琵琶湖。かつて「淡海(あふみ)」と呼ばれたこの湖は汽水湖ではない。それなのに淡い海? これは、ただの漢字で、古代人は音で「あうみ」=「吾海」と話し、「私たちの海」なのでは?

しかし、なぜ自分たちの土地に「天」の名を与えたのだろうか? そのヒントは、日本語の性質、「膠着語(こうちゃくご)」にあるのだろう。音をつなぎ、意味を重ねて、世界を編み上げる言葉。「アマ」、その音には、古代の名乗りが込められていたのではないか。

中国の古代人が「マ()」・鬼が衣を着た(鬼の心を持つ)魔物と呼び畏れた異界の民。それが、列島に生きる人々そのものだったのではないだろうか? 日本人は言ったのかもしれない。「われはマ――神の民なり」と。奄美、天草、玄界灘に暮らす人々は、自らを「ア(吾・我)」と呼び、「アマ」=「吾は神()」という誇りとともに生きていたのでは?

一方、山に住む人びとは「ヤマ」と呼ばれ、島に住む人びとは「シマ」。それは、「あま」にとっては、よそ者「奴(やつ)らの神()」を言い、領土(シマ)は死者(先祖)が眠る場所だったのでは。やがて、彼らは「アマ」という音とともに、北陸や琵琶湖のほとりへも「あま」を持って渡っていった。

 「アマ(海士)」とは、雲の上に住む神ではなく、海に生き、神の島に立ち、神の山を目指す〝神の民″=〝神()祇″だったのだろ。〝神祇″は〝山祇″のいる所を目指した。

2026年4月24日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 日本の神話の「天」1

  『山海經』では、「天」は雲の向こうの神秘の世界ではなく〝天″とは〝海″だった。 中国から東へ海を渡った先に、壱岐、対馬、隠岐、九州北部・山陰に沿って浮かぶ、島々が広がっている。中国人は古代中国の地理神話書『山海経』で、このあたりは「六合の間」と呼ばれる神霊が生まれる領域と考えた。

そして『古事記』には、こんな記述が残っている。

壱岐:「天比登都柱(あめひとつばしら)

対馬:「天之狹手依比賣(あまのさでよりひめ)

隠岐:「天之忍許呂別(あまのおしころわけ)

どれも、「天(あま・あめ)」の名を頭に被せている。つまり、〝天″とは、空の上ではなく、神々が現れ、往来していた海の島々だった。

『山海経』にも「唯聖人能通其道」、聖人がそこをよく通ると記す。私たちは、この聖人をよく知っていて、「ひじり」と読み、肥後のこと。日本人はこの聖人を肥後の人と理解していた。その「天」は、やがてさらに広がっていく。『山海経』に記された沿岸の地、奄美、天草、西九州、山陰、北陸、そして琵琶湖にまで、人々はそこに〝天″という音を重ねていった。

奄美は丁度、海流が解れるところの近く。『山海經』の世界。「天之山」がある所?海士の故郷?中国人には山東半島の南に三人の天子の都があった。そして、天民は西の湖から遣ってきた。

2026年4月22日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  神は空で生まれない2

  では「六合」とは何だろう? それは、読んだ通りの六つの海域が合わさるところである。『山海経』の世界には、いくつもの〝海″が登場する。海内(渤海・黄海)、海外西(朝鮮の東岸)、海外東(日本海東側)、海外北(日本海北側)、大荒南(太平洋)、大荒東(瀬戸内海やその太平洋沿岸側)

その海々が交わる中心こそが〝六合の間″。そこが神霊の、生まれるところ。「海外南」が〝六合の間″とされた。そしてその場所は、今の日本に含まれる。玄界灘、九州北部・山陰の海辺。神々の誕生の舞台が、身近な海のほとりだった。

そして、もう一度『日本書紀』をひもといてみると、こんな言葉があった。「天照大神 照徹於六合之内」天照大神は、六合の内を照らしている。あの〝六合″が、ここにも登場した。『山海経』では、神霊がその六合の間で生まれた。『日本書紀』では、天照大神がその六合の内を照らしている(統治している)。これはただの偶然ではなく、深く繋がっていた。『日本書紀』編者は『山海経』を読んで「六合」をそのまま輸入した。

中国の聖なる海域と、日本の神々の風景は、一本の光で結ばれていた。古代の人々は、『山海経』の世界を知っていた。そして、〝六合の間″は 日本の海辺にある″と考えていた。「神様は天で生まれた」けれどその〝天″とは、空のかなたではなかった。もっと身近な、手・足で触れることができる場所だった。島が生まれ、クジラが子を産む、そんな姿に神秘を感じた人々の話だった。

人々は逃れて極東へやってきた。しかし、〝六合の間″の人々は、積極的に、各地へ赴き、住む場所を造った開拓民()だった。

2026年4月20日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  神は空で生まれない1

  「神様は 〝天空″で生まれた」と聞いて、頷く人も多いと思う。神を信じる人も、信じない人も、神話なのだからと、「何となく」そのように考えている。天空といえば、雲の上に広がる神秘の世界。そこで神々が生まれた、そんなイメージが、私たちの心には根付いている。神様は天(そら)から降(おり)て来たのだからと。

しかし、これまで見てきたように、古代の〝天゛は空ではなかった。日本で〝天゛は、〝海″、中国では川も「天」。神々は、雲の上に生まれたわけではなくて、もっと身近な海辺で目を開けた。神様は、天(うみ)から海流を降(くだ)って来たのである。

それでは〝海のどこ″で神は生まれたのだろうか? やはり、中国の『山海経』、神話と地理が混ざり合った、不思議な世界が広がる書。そのなかの「海外南経」に、こんな一文が。 「六合之間 神靈所生」、六合の間で、神霊が生まれた。「六合」、読み進めていくと、海の世界が浮かび上がってくる。

 まず「海外」とは、〝海の外側″。ここでいう〝海″は、中国の〝海内″(中国の海)、つまり渤海・黄海のこと。山東半島から見た景色で南・西海はシナ海(東・南)。渤海は北海、黄海は東海と呼ばれる。〝海外″とは、中国の海の外、山東半島から見た渤海や黄海のもっと向こう側。つまり朝鮮半島の東と南の海である。日本列島の玄界灘に重なる日本海。〝海外南″はまさにそのあたりである。

2026年4月17日金曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 天は海

  この「天地」という文字は、後から持って来た漢字。本来の「空」と「地上」とは、別物だったのでは? そんな疑問が浮かんできたとき、漢字の大本、中国の古代地理書、『山海経』を調べた。日本の神話と直接つながるわけではないが、編纂当時の『天』という言葉のイメージを知る手がかりになる。

その中の「海内経」には、こんな一文、「蓋天地之中」、この〝蓋″は、遼東半島あたりの「蓋州」のことだ。そこが「天地の境目」だと言う。天が空なら、「そこ」や「ここ」、世界中全て「天地の境目」。無意味な話になってしまう。「天」は「そこ」遼東半島の辺りで、空ではなく「水」だった。遼東半島にある「蓋州」が、「天地の中」にあると記されている。その場所は、鴨緑江、遼河や黄海、渤海が交わる水の源。天は、泉のように水が湧き出す場所だったのだろう。

さらに『山海経』の「大荒南経」には、〝天之山″という山があった。名前だけ聞けば、「空の上の山?」と思うが、違う。それは空に浮かぶ山ではない。「大荒南経」は太平洋のこと。海に浮かぶ島、そこから水が湧き、命が始まる場所だった。黒潮と対馬海流が分れていくあたりだ。

つまり、「天」とは空ではなく、〝聖なる海の源泉″だったのでは? 「天地初發」や「天地未剖」という言葉を、そうした視点で読み直してみると、これは「空と地面」の物語ではなく、「海と陸」、舟に乗って新しい陸地を発見した瞬間の神話だったのでは? 日本の始まりの時はまだ、文字がなかったが音を出して話をしていた。古代の人々は、音に祈りを込めて、「あま あめ」という響きの中に、男の神の「ま」、女の神の「め」と呼んだ。

やがて、中国から漢字が伝わる。「あま あめ」に「天」の字が当てられたとき、その音は、〝空″として解釈されていった。火山島が海で生まれ、そこに命が芽吹く姿を見つめていた人々には、「天」は、命が育まれる海そのものだった。したがって、彼らは「海士」。海に生まれ、海に祈る民だった。

この視点で、『記紀』を読み直すと、今まで見えなかった道が、浮かび上がってくる。

 

2026年4月15日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 天は海1

  私たちは「天」を「空」と理解した。

神様は空にいて、我々を観て、必要な時、空からやってくる。『日本書紀』の冒頭には、こう書かれている。 「古(いにしえ) 天地未剖(あめつちはまだ分かれていなかった)」。そして『古事記』には、「天地初發之時(あめつちが、はじめてひらけたとき)」。 どちらも、世界がまだ形を持たなかった頃の、静かな始まりを描いている。

現代人の多くは、これを「宇宙創世のような話」と解釈し、私たちはつい、「天=空」「地=大地」だと思い込んでしまう。けれどそれは、現代の感覚に過ぎない。古代の人々は、漢字を知らなかった。だから、音がすべてだった。漢字の意味より、音に宿る命の気配を信じていた。そのため、漢字を平仮名に変えて読んでみる。原文を見て確かめることが重要になる。そして、実際に原文を読むなら、改変の少ない江戸初期の写本を読むべき。そこには、まだ削られていない〝古代語の音″が残っているからだ。

写本を音だけで読み比べると、今まで、『日本書紀』のほうは「世界が 始まった」と感じ、『古事記』のほうがそれより前、「まだ ドロドロしている世界」との印象だった。それを、仮名に直して、耳で読む。すると、文字に隠れていた風景が、立ち上がってくる。写本の言葉をたどれば、『古事記』ではすでに三柱の神が現れている。御中主という主が、世界を動かし始めている。それに対して『日本書紀』では、まだ神も登場しないで、すべてが混沌とした無に包まれている。

『古事記』の「天地」は、「空と大地」のことでは無いことが解る。読み方も天は「てん」ではなく、『古事記』は「あめ」と読めと記される。「あめ」は「雨」、 同じ音なら、文字が違っても漢字が無い時代は同じ。同じもの・同じ事に漢字を変えて、記した人物の意思を加えている。「あめ」=「天」=「雨」、恵みを与えてくれるものを創造する。

2026年4月13日月曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 建国

  『日本書紀』、『先代舊事本紀』、『古事記』は異なる世界を伝えた。

すなわち、背負って立つ国が違うということが解る。『日本書紀』にはまだ国が建国されていない。『先代舊事本紀』・『古事記』には天国がすでにあって、『古事記』は主という官位があった。

また、最初に宮を建てた神が伊弉諾、伊弉冊で天之瓊矛を使って馭慮嶋を建国し、その瓊矛が宮柱である。馭慮嶋は隠岐の三小島が天之忍許呂別というように、隠岐の島後(隠氏の許呂島)のことだ。その唯一の国の名が食国(隠洲国)である。

そして、伊弉諾、伊弉冊は最初のその国、食国を月読に任せた。月読は『日本書紀』の最古の国、隠岐の女王になった。天照大御神は高天原という荒地、素戔嗚は海原を与えられた。『先代舊事本紀』の狭霧は天にある日国を譲り受け、天照大御神と素戔嗚は協力して、三神を生んだ。田心姫、湍津姫、市杵嶋姫だが、一書に筑紫水沼(水間)君の祖として三姫が仲国宇佐嶋(?邑)に天降ったとある。すなわち、後代の海北道を治める道主貴である。のちに、白日別、豊日別、建日別と分国(素戔嗚の国の分国)するのだろう。筑紫君なのだから、宇佐から道主(道臣)が西征して筑紫の三潴(?水間君)の王になった可能性がある。

そして、この宇佐嶋を領有する仲国の王の名は仲主と推定できる。『古事記』の御仲主がそれにあたる。

国は1国だけでは無意味、食国ができたということは、食国は伊弉諾・伊弉冉の出身地・祖国にも名があったはずだ。それが、天国なのだろう。さらに、素戔嗚や天照大御神の土地も国と呼ぶ。速素戔嗚は()日国、天照大御神は?大神と呼ぶのだから大国である。

日本に天国と食国ができた。そして、天国は分国の日国を建国、そこを任された(譲られた)のが狭霧である。生まれは高天原、天照大御神と同じだ。

2026年4月8日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代  三千年前の声

神話は三千年前の記録ではなく言葉で話しかけている。その声、『日本書紀』、『先代舊事本紀』、『古事記』は異なる世界を伝えてくる。その異なる声の最初は神だ。最初の神は、『日本書紀』が国常立、続いて国狹槌、『先代舊事本紀』が天譲日天狭霧国禅日国狭霧。『古事記』が天之御中主で最初から主という王が。そして国狹槌は記されない。代わりに豐雲上野。順も語られ方も異なっていた。

記録ある時代になっても、鮪臣は異なる相手とライバル? その相手は『日本書紀』では、武烈天皇で恋敵、『古事記』では、なぜか清寧天皇の代に袁祁・意祁の〝政敵″として描かれる。そして、『日本書紀』には「時代のズレ」もあった。神功皇后が活躍したとされるのは西暦239年。その年は、中国の史書『三国志』に出てくる「景初三年」と重なる。しかし、神功皇后の時に出てくる百済の貴須太子の即位が奇異だ。日本では256年に即位したと記されているけれど、朝鮮半島の史書には375年即位。

 こんなにも時間がずれている。このずれは神功皇后だけではない。神武天皇も景行天皇にもあったことを、これまで述べた。〝歴史″は「誰が」「何のために」語るかで、まったく別の物語になる。この編者たちの主観を抜け出し、科学と論理で「真実の古代」を述べる時が来た。「奇異だ」、「矛盾している」、は終わりにしよう。『日本書紀』の編年は借り物の歴史、『古事記』と同じように紀伝体の史書と考えて、客観的に整理しよう。

2026年4月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 まとめ

  真実の古代では『日本書紀』の日干支が間違ったところに当て嵌めたものがあったことを示した。朔日の日干支をユリウス数から求め、日蝕の日干支を中国の日干支に比べたところ、ほゞ、あっていた。中国の日蝕の日干支が95%正しかったが、日本の日蝕の日干支は80%正しかっただけ。

私の暦は標準の暦、ユリウス数0がユリウス暦に換算すると紀元前4713年11日 正午(ロンドン)からの日数。それが基準だ。その数値が中国の史書の暦と95%、現代の旧暦と100%合っている。ただし、中国は晦イコール朔だった。そして、『日本書紀』は中国の史書と符合するように編んだことを示した。たとえば、卑弥呼の遣使が238年景初二年を239年景初三年に記した。中国を信用していたのだ。

日干支を使った最初は周武王の「十一年十二月戊午」、最初の晦の使用は「高祖三年冬十月甲戌晦」、後に高祖が10月を1月にするので、紀元前204年1月1日である。最初の朔の使用は「惠帝紀八年春正月辛丑朔」、紀元前188年1月1日である。

ところが、日本での最初は前667年十月丁巳朔、中国が知らない暦だ。日本には東洋の暦を創った羲和がいた。夏至や冬至を知っていた。天降って一百七十九萬二千四百七十餘歳と干支(おそらく十干)を数えた。高千穗の宮にいた年数伍佰捌拾歳を数えた。適当な数値なら、もっと簡単な数値で十分。ある種の記号を高千穂宮に残していたことが解る。4900年間も毎日数えたのだろう。

氏族の長は「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を建立して、記録を残した。そしてその場所を移動する時も、同様に宮柱を建立した。そして、その記録が、朔日を基準にした日干支と記録だった。史書に適当な数値や日干支が無いことを述べてきた。

以降、『日本書紀』の記録挿入場所が20%間違っていたことを踏まえ、中国史書、『古事記』、『旧事本紀』を利用して、真実の古代史を検証していこう。

2026年4月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇6

十年春正月甲辰朔の卿大夫への饗応、二月癸酉朔と六月辛未朔戊子の吉野宮へ行幸、三月癸卯朔の二槻宮へ行幸、夏四月壬申朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、秋七月辛丑朔の日蝕、八月庚午朔の多臣品治への直廣壹授与、九月庚子朔の若櫻部五百瀬への直大壹の贈、十一月己亥朔の大官大寺沙門弁通へ食封の加増、十二月己巳朔の金光明經を読ませた記録は正しい日干支、畿内の記録だ。五月壬寅朔の大錦上秦造綱手の忌寸賜姓は九州の日干支だが、大錦上は天武十四年には廃止され、忌寸は天武十三年以降なので、684年の内容である。大来皇女の伊勢斎宮の紀年なのだろうか。冬十月己巳朔の右大臣丹比眞人の卒も九州の暦、都督府の記録だ。

十一年二月丁卯朔の直廣壹當麻國見を東宮大傅にした記録は九州の暦、高市皇子の薨去で、若い文武天皇が東宮、その後見が國見で、都督府の影響があったため、中国風名称の大傅は相応しい。20歳に達していない天皇の為の後見なのだろうか。三月丁酉朔の大法会、夏四月丙寅朔の爵位授与、五月丙申朔の雨乞いは正しい日干支、たくさんの爵位授与から解るように、日並(天武天皇)の即位によって、世代交代が起こったことを示す。六月丙寅朔の恩赦は九州の暦、都督府の閉鎖による赦免だろう。秋七月乙未朔の恩赦は正しい日干支、畿内の記録である。八月乙丑朔の文武天皇即位は九州の暦、この時、浄御原には大友皇子が太政大臣、文武天皇が蜂起した。

『古事記』の「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期聞」、浄御原天皇の御世に潜伏していたが、機に応じ蜂起した。その王は賢后と比較し、また漢民族の始祖の軒后、中国の初代の夏王朝の初代の文命や殷王朝の初代の天乙と比較した安萬侶の目の前に立つ元明天皇である。中国は元明を文武と理解した。

2026年4月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇5

  七年春正月辛卯朔の高市皇子への淨廣壹授与、三月庚寅朔の日蝕、夏四月庚申朔の雨乞い、六月己未朔の高麗沙門福嘉の還俗、秋七月戊子朔の吉野宮への行幸、八月戊午朔の藤原宮地への行幸、九月丁亥朔の日蝕、冬十月丁巳朔の観兵の詔勅、十一月丙戌朔の吉野宮行幸、十二月丙辰朔の諸国に陣法を習わせた記録は畿内の記録である。二月庚申朔の新羅の遣使は九州の暦、都督府の記録である。五月己丑朔の吉野宮へ行幸も九州の暦、鸕野讃良皇女か高市太政大臣が行幸したのだろうか。

八年春正月乙酉朔の布勢御主人と大伴御行を加増と氏上授与、三月甲申朔の日蝕、夏四月甲寅朔の河内王へ淨大肆贈、六月癸丑朔の河内国更荒郡の白山鷄献上、秋七月癸未朔の諸國へ巡察使派遣、八月壬子朔の飛鳥皇女のための百四人出家、九月壬午朔の日蝕、冬十月辛亥朔朔の白蝙蝠捕獲、十一月辛巳朔の恩赦、十二月庚戌朔の藤原宮への遷都は正しい日干支、畿内の記録である。文武天皇の遷都は704年なので、天智天皇が藤原宮に遷ったのだろうか。日並は文武天皇が蜂起した時、浄御原に居たとある。八年は五月癸未朔の内裏での饗応のみ九州の暦である。

九年春正月庚辰朔の舍人皇子へ淨廣貳授与、潤二月己卯朔と八月丙子朔と十二月甲戌朔の吉野宮へ行幸、三月戊申朔の新羅から遣使、夏四月戊寅朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、五月丁未朔の隼人大隅への饗応、六月丁丑朔の雨乞い、冬十月乙亥朔の菟田吉隠への行幸は正しい日干支、畿内の記録である。秋七月丙午朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、九月乙巳朔の恩赦は九州の暦、都督府の記録だろう。

2026年3月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇4

  五年春正月癸酉朔の叙位、三月壬申朔の宴、五月辛未朔の百濟淳武微子への褒美、秋七月庚午朔の吉野宮行幸、八月己亥朔の墓記の上進、九月己巳朔の音博士と書博士に下賜、冬十月戊戌朔の日蝕は畿内の記録である。二月壬寅朔の仏教に関する詔勅は九州の暦、天皇の言葉に天皇と発言するのは奇異で、九州の天皇(高市太政大臣)が上位の天智天皇の事を述べたのだろう。夏四月辛丑朔の除籍した奴婢の扱いの詔勅も九州の記録である。九州は勢力争いで奴婢が多数発生したのだろう。十二月戊戌朔の薬の博士や咒禁の博士に褒美を与えたのも九州の記録である。

六年春正月丁卯朔の高市皇子に増封、二月丁酉朔の三月三日に伊勢へ出発する詔勅は畿内の記録である。但し、本当に出発するのは三月六日で、太陽暦の可能性がある。『古事記』が太陽暦で編まれていることと対応している。三月丙寅朔の高市麿の諫言は九州の暦である。五月乙丑朔の阿胡行宮も同じ九州の暦である。廣瀬王、當麻智徳、高市麿は『続日本紀』で702・3年から出現する。これらの記録は大化六年(700年)の記録と考えられる。夏四月丙申朔の大伴友國への贈直大貳は正しい日干支だが、大化六年の戦死の可能性がある。

潤五月乙未朔の大水、六月甲子朔の山岳の河の祈祷、秋七月甲午朔の大赦、八月癸亥朔の赦罪、九月癸巳朔の四畿内の視察の使者、冬十月壬戌朔の山田御形に務廣肆授与は正しい日干支、畿内の記録である。十一月辛卯朔の新羅からの遣使は九州の暦、新羅の孝照王即位の使節なのだろう。十二月辛酉朔の音博士に水田を授与は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇3

  三年春正月甲寅朔の天皇の朝賀、三月癸丑朔の大赦、五月癸丑朔と秋七月壬子朔の新羅弔使の説話は九州の暦なので、都督府の記録だろう。二月甲申朔の防人の年限の詔勅、夏四月癸未朔の新羅人を下毛野に投化、六月壬午朔の筑紫大宰への衣裳下賜、秋八月辛巳朔の神事は正しい日干支、畿内の記録である。

潤八月辛亥朔は九州の暦で、戸籍を創る詔勅である。戸籍は白雉三年や天智九年に詔勅を出したので、九州では天智九年の戸籍と様式が違っていたのだろう。九月庚辰朔の石上麿、石川虫名の筑紫派遣、冬十月庚戌朔の高安城行幸、十二月己酉朔の雙六禁止は畿内の記録だ。十一月己卯朔の高田石成が軍を削減したことで褒美を与えた。これは九州の暦で、九月の戸籍の詔勅で、軍は4軍までとあったのを、3軍に減らしたためだ。

四年春正月戊寅朔の朝賀は九州の暦、都督府の記録である。大嶋は中臣朝臣で、ここから藤原姓を外れた。

二月戊申朔の腋上行幸、夏四月丁未朔の廣瀬大忌神與龍田風神の祭り、五月丙子朔と八月乙巳朔と冬十月甲辰朔の吉野宮行幸、六月丙午朔の泊瀬行幸、十一月甲戌朔、十二月癸卯朔の金高訓の記録は正しい日干支で畿内の説話である。三月丁丑朔の京と畿内の老人に祝いの物を渡し記録は九州の暦、天智天皇の首都は畿内にあるのに、京が別に記されているのは、この京が畿内でなく筑紫だったことを示している。秋七月丙子朔の公卿百寮に新しい朝服を配った記録、九月乙亥朔の戸籍の造り方の詔勅は九州の暦である。

2026年3月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇2

  元年春正月丙寅朔の皇太子の殯は2月の朔日の日干支である。他に候補日が無い。すなわち、1月晦日の記録を2月朔日と変換した可能性がある。大化元年、日並の即位の説話だろうか。三月乙丑朔の高句麗人の投化、夏四月甲午朔の筑紫大宰が献上した新羅人の投化は正しい日干支、畿内での記録である。五月甲子朔の殯は畿内での大海皇子への殯なのだろう。

元年六月癸巳朔の恩赦、秋七月癸亥朔の徳政令は畿内の政策である。八月壬辰朔の御青飯の記録は九州の暦、都督府の記録である。九月壬戌朔の国葬の祭壇を設けた記録は畿内、冬十月辛卯朔の陵墓作成は都督府の記録である。この大規模な葬儀は、九州の天皇の大海皇子の葬儀ではなく、大化元年695年の記録の可能性が高い。天皇の即位時に常に言及する「不改常典」を定めた天智天皇、この葬礼も常典なのだろうか。十二月辛卯朔の路迹見の新羅遣使は畿内の記録である。

二年春正月庚申朔の皇太子による殯、三月己未朔の藤原朝臣大嶋の誄も、やはり、大化二年(696年)の記録なのだろう。694年に建造を始めた粟原寺の鑪盤銘には大嶋の名があった。皇太子は十市皇女の婿の大友皇子と考えられる。九州の記録の六月戊子朔の恩赦、畿内の記録の八月丁亥朔の大伴安麻呂の誄、九州の記録の冬十一月乙卯朔の皇太子の殯宮の慟哭も同様だ。大伴安麻呂は714年に大納言兼大將軍正三位の地位で薨去した。大嶋と共に誄する地位に相応しい。

二月庚寅朔の大宰からの新羅の品の献上も新天皇への献上で、畿内の記録だ。夏五月戊午朔の百済人の甲斐移住、秋七月丁巳朔の大旱魃、九月丙辰朔の饗耽羅佐平加羅の饗応、十二月乙酉朔の蝦夷饗応は畿内の記録である。

2026年3月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇1

天武天皇の内容は『日本世記』の内容で、九州の暦は筑紫都督府・浄御原宮の記録、正しい日干支は畿内の天智天皇の記録と考えられた。持統天皇の内容もおおむね同じだろう。そして、一部、元明天皇の記録と大長年間の記録が混じっていると考えられる。菟野讚良皇女は世代的に天智天皇と同世代の義妹と考えられる。天智天皇の皇后が馬子の家系の倭姫、日並が彦人の家系の鏡王の娘の額田姫を皇后にした。当然、その頃の最高権力者の娘たちだ。

持統天皇は總持天皇、皇祖母が額田姫だったと考えられる。鏡王の祖は宣化天皇の子の偉那公の祖の上殖葉大王、その娘が大俣王、その婿が彦人、その子が猪名鏡公高見である。額田姫と大村は兄妹だろう。

皇后が大后と呼ばれた時、東宮が後を大后に任せ、諸政は大友皇子に任せるように進言した。大友皇子は日並天皇の娘の十市皇女の婿、703年の出来事である。大友皇子は太政大臣、九州の浄御原で統治していたと思われる。持統上皇は702年に三河へ、文武天皇も尾張や美濃・伊勢・伊賀に行幸している。これは、額田大后の逃避行なのではないか。そして、大長元年・景雲元年(704年)に文武天皇が勝利して藤原宮で即位した。

朱鳥元年九月戊戌朔の天武天皇崩御、冬十月戊辰朔己巳の大津謀反は正しい日干支、天智天皇の記録である。皇太弟の都督府天皇の大海皇子が崩じた。大津皇子謀反は壹伎連博徳が連座していて、博徳は中宮天皇世代にあたり、冠位も小山下と685年より前の古い冠位である。十一月丁酉朔の大来皇女の伊勢参拝、十二月丁卯朔の浄御原天皇のための祈祷は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇7

     十三年二月癸丑朔の金主山の筑紫での饗応、三月癸未朔の椿の献上、閏四月壬午朔の装束の詔勅、六月辛巳朔の雨乞い、秋七月庚戌朔の広瀬へ行幸、冬十月己卯朔の八色の姓の詔勅、十一月戊申朔の五十二氏に朝臣を賜姓、十二月戊寅朔の五十氏に宿禰の賜姓は正しい日干支で、天智天皇の政策である。

正月甲申朔の三野縣主、内藏衣縫造への連の賜姓、夏四月壬子朔の恩赦、五月辛亥朔の百済人を武蔵に置いた記録は九州の暦、都督府の指示である。

十四年春正月丁未朔の群臣の拝賀、二月丁丑朔の唐人、百済人。高句麗人への爵位、夏四月丙子朔の紀伊の温泉が止まった記録、五月丙午朔の射礼、六月乙亥朔の十一氏への忌寸の賜姓、秋七月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、八月甲戌朔の淨土寺への行幸、九月甲辰朔の舊宮安殿での宴会、冬十月癸酉朔の僧常輝への増封、十一月癸卯朔の「儲用鐵」を周防に送付、十二月壬申朔の筑紫への舟の海難事故は正しい日干支、畿内の記録である。三月丙午朔の金物儒の筑紫での饗応と筑紫からの帰国は九州の暦、都督府の記録である。

朱鳥元年春正月壬寅朔の大極殿での宴、二月辛未朔の勤位の授与、三月辛丑朔の羽田眞人八國の病、夏四月庚午朔の桑原村主訶都の直廣肆の授与、五月庚子朔の多紀皇女が伊勢から帰った記録、六月己巳朔の槻本村主勝麻呂の連の賜姓、秋七月己亥朔の庶民の装束の詔勅、八月己巳朔の八十僧の出家、九月戊戌朔の川原寺での天皇治癒の請願は正しい日干支、天智天皇の記録である。

日付が特定できる大伴男吹、羽田八國は壬申功臣だが、『続日本紀』では記されない。2つの壬申の乱があった。

2026年3月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇6

  十一年春正月乙未朔の叙勲、三月甲午朔に新都の調査、五月癸巳朔の倭漢直に連を賜姓、六月壬戌朔の高句麗、新羅の遣使、秋七月壬辰朔の隼人の遣使、九月辛卯朔の礼法の改革、十一月庚寅朔の刑法の詔勅、十二月庚申朔の氏上の詔勅は畿内の出来事だろう。二月甲子朔の新羅の使者の金忠平の帰国、四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、八月壬戌朔の順法の詔勅、冬十月辛酉朔の酒宴は九州の暦だ。金忠平は筑紫で饗応され九州の暦で記した。

 中宮天皇の崩御のため、天智天皇は夜の天皇で祭祀を、成務は九州の大海皇子が担当したのだろうか。そのため、実権を大海皇子に奪われ、壬申の乱が始まる、694年に大友太政大臣、日並天皇も再度の戦乱に対して持統四年、すなわち、文武四年700年に、高市太政大臣が軍務を遂行したのだろう。

 十二年春正月己丑朔の群臣の拝賀、二月己未朔の大津皇子が初出仕、夏四月戊午朔の銀銭廃止、六月丁巳朔の大伴連望多の薨、八月丙辰朔の大伴連男吹負の卒、九月乙酉朔の大風、冬十月乙卯朔の十四氏に連を賜姓、十一月甲申朔の戦術を習わす記録、十二月甲寅朔の国境の決定は正しい日干支、天智天皇の政策である。三月戊子朔の僧の統領を法に準じる詔勅は九州の政策だろう。秋七月丙戌朔の鏡姫王の見舞いは、『興福寺流記』に記される嫡室の鏡女王ならば、鎌足が薨去する692年時点でも生存中だ。藤原宮十二年の705年なのだろうか。もし、額田姫の母なら、世代的に相応しい。

2026年3月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇5

  八年六月庚戌朔の雹、十一月丁丑朔の地震、十二月丁未朔の恩赦は九州の暦で、筑紫での記録だ。それに対して、秋七月己卯朔の雨乞い、八月己酉朔の「貢女人」、九月戊寅朔の新羅遣使、冬十月戊申朔の治安の悪化は正しい日干支、畿内での記録である。

九年春正月丁丑朔の大宴会、三月丙子朔の巫鳥の献上、夏四月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、六月甲辰朔の新羅の使者の帰国、八月癸卯朔の嘉禾の献上、冬十月壬寅朔の貧しい寺の僧や百姓への施し、十一月壬申朔の日蝕は正しい日干支、畿内の天智天皇の記録である。廣瀬龍田神の祭りが天皇交代時期681年や695年に九州の暦で記され、外交と廣瀬龍田神の祭る宗教の天皇、都督府の政務と行事の太子の切り分けができそうだ。

それに対して、二月丙午朔の東方で異音、五月乙亥朔の京内廿四寺への施し、秋七月甲戌朔の飛鳥寺西槻の枝が自然に折れた現象、九月癸酉朔の「馬的射」は都督府の記録なのだろう。

十年春正月辛未朔の幣帛を分け与えた記録、二月庚子朔の草壁皇子を皇太子にしたのは九州の暦だ。九年十一月に中宮天皇が崩じ、天智天皇が即位し、都督府の支配下の大海皇子が九州の王となったのだろう。三月庚午朔の阿倍夫人の葬、夏四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、六月己亥朔の新羅饗応、九月丁酉朔の高句麗、新羅の遣使、十二月乙丑朔の新羅の饗応も九州の暦で、十二月の饗応は筑紫に派遣したと記した。 それに対して、五月己巳朔の皇祖の御魂を祀った記録、秋七月戊辰朔の朱雀を見た記録、八月丁卯朔の上毛野君三千の卒、冬十月丙寅朔の曰蝕、十一月丙申朔の地震は畿内の記録だ。

2026年3月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇4

  五年の九月丙寅朔、十一月乙丑朔、六年五月壬戌朔、十一月己未朔、十二月己丑朔の「朔告げず」は正しい日干支、天智天皇が朔日を公布していた。五年の冬十月乙未朔の酒宴も正しい日干支で676年の記録である。

六年春正月甲子朔の17日に行う射礼記録から八年五月庚辰朔甲申の吉野宮行幸までの記録は正しい日干支、天智天皇の記録なのだろう。六年二月癸巳朔の物部麻呂が新羅から来日、三月癸亥朔の新羅からの遣使、夏四月壬辰朔の杙田史の島流し、六月壬辰朔の大地震、秋七月辛酉朔の龍田風神、廣瀬大忌神を祀り、八月辛卯朔の飛鳥寺の大法会、九月庚申朔の浮浪人への課役、冬十月庚寅朔の民部卿、攝津職大夫の任命、七年春正月戊午朔の射礼、夏四月丁亥朔の十市皇女の薨去、冬十月甲申朔の不明な物の出現、十二月癸丑朔のアトリの飛来、八年春正月壬午朔の新羅の遣使、二月壬子朔の高句麗、新羅の遣使、三月辛巳朔の大分君の卒、夏四月辛亥朔の寺の由緒の調査、五月庚辰朔の吉野行幸が含まれる。天智天皇の記録が続いている。

しかし、七年四月丁亥朔の十市皇女薨去は日並の娘、生まれていないので、大化七年701年と考えられる。『薬師寺東塔の擦管』には「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」とあるように浄御原宮八年が680年だったのだから、天武八年の記録には680年の記録が記される可能性もある。それでも、無理やり記録を挿入しなければならないものはなさそうだ。

2026年3月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇3

三年春正月辛亥朔の百済王の昌成の薨は九州の暦、674年の都督府の記録なのだろう。二月辛巳朔は正しい日干支、壬申年の功労者の阿閇麻呂が卒、大紫位を贈った。三月庚戌朔の対島の銀献上は九州の暦で、都督府の記録だろう。秋八月戊寅朔の忍壁皇子を石上神宮派遣した記事、冬十月丁丑朔の大来皇女の伊勢派遣は正しい日干支、674年では皇子・皇女がまだ幼いはずだ。

四年春正月丙午朔の大学寮の学生たちから珍物・薬を贈られたのは正しい日干支、675年の記録だろう。二月乙亥朔の支配地からの芸人を集めたのも正しい日干支、三月乙巳朔の土佐からの刀の贈り物も正しい日干支、675年だ。夏四月甲戌朔の大法会、六月癸酉朔の大分君の病死は九州の日干支、都督府の出来事だろう。秋七月癸卯朔の新羅遣使は正しい日干支で天智天皇の記録、八月壬申朔の耽羅からの使者は九州の暦、都督府の記録だ。九月壬寅朔の耽羅王が難波に来た日干支、冬十月辛未朔の四方への遣使も、十一月辛丑朔の宮の東の山で奇怪な自死の日干支も正しい日干支で、畿内での記録だろう。

五年春正月庚子朔の朝拜は正しい日干支、畿内の記録、二月庚午朔の耽羅に船を与えた記事は九州の記録である。夏四月戊戌朔の龍田風神と廣瀬大忌神を祀った記録、五月戊辰朔の国司の調の遅れの記録、秋七月丁卯朔の爵位を与えた記録吾は正しい日干支、畿内の676年の説話だ。八月丙申朔の親王、皇女、重臣への食封の記録は九州の暦、676年の筑紫都督府の記録である。郭務悰の権力が天智天皇より上位だったようだ。

『日本世記』の記録なので、正しい日干支は天智天皇、九州の暦は都督府の記録のようだ。正しい日干支の記録は三・四・五年が浄御原三・四・五年(675・676・677年)と一年のズレがある可能性が高い。

2026年3月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇2

  元年春三月壬辰朔の郭務悰の哀悼は俀国の暦、695年の大化元年の記録と考えられる。夏五月辛卯朔の郭務悰への賜物は正しい日干支、都督府への献上なのだろう。六月辛酉朔の太皇弟の美濃逃亡は正しい日干支である。中宮天皇が都督府へ行き、皇弟が美濃に逃れた。秋七月庚寅朔の近江入りも正しい日干支で672年の説話だろう。八月庚申朔の高市皇子の罪状宣下の説話は俀国の暦、大宝元年だろうか。高市皇子は日並の娘十市の婿と考えられ、672年頃の高市皇子まだ生まれていない。九月己丑朔の桑名からの帰還、冬十一月戊子朔の新羅使の饗応、十二月戊午朔の勲功が有った者への加増は正しい日干支、672年の説話なのだろう。

二年春正月丁亥朔の宴会、二月丁巳朔の飛鳥淨御原宮での皇后就位は九州の暦、694年の遷都の説話だろうか。三月丙戌朔の白雉献上、大來皇女の天照大神宮の祭祀、夏五月乙酉朔の任官の心得も、秋八月甲申朔の紀臣阿閇麻呂の壬申年勲労も九州の暦、『続日本紀』で無位の紀臣の阿閇麻呂は紫冠を得ているので、日並による勲功なのだろう。九月癸丑朔、冬十一月壬子朔の新羅の金承元記事は正しい日干支、難波にやってきた。十二月壬午朔の賜祿や加級も正しい日干支で畿内の記録である。

壬申年之功労で、676年村國連雄依が小紫を贈られた。また、685年に當麻眞人廣麻呂、686年に羽田眞人八國が直大參から特進で直大壹を贈られた。しかし、716年に子たちに贈られたのは小依のみ、701年に贈られた人々が多数いる。爵位を贈られる大功の最後が八國の686年、この時八國が50歳代なら、その他の人々も同程度以上の卒の人物と考えられる。すると、716年の「功臣贈」は子息ではなく孫や曾孫となってしまい奇異だ。それが、700年前後の戦いとするならば、とても相応しい。また、雄依は701年に百廿戸の贈ではなく賜、死後は贈で賜は直接本人に与えることを言うはずだ。

2026年3月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇1

   天武天皇の記録は『新唐書』の天武・總持朝の記録(『日本世記』)の内容を記したと考えられる。天武・持統朝の記録があれば、『古事記』は不要だった。続き柄は元明天皇の続き柄と考えられる。『続日本紀』の文武・元明天皇は桓武天皇の血筋の天武・總持天皇の続き柄を記したと私は理解した。『粟原寺鑪盤銘』には694年に日並が皇太子の時、「惶惶」と恐れていた。近江朝(藤原遷都)天智天皇が病弱、筑紫都督府のもう一人の皇祖母の持統天皇が中国を後ろ盾に、かなりの権力を持っていたのだろう。

 鸕野皇女は天智天皇の世代、阿陪皇女はその娘か姪だろう。鸕野皇女は蘇我氏の娘で大海皇子はその婿、稲目の系譜である。天智天皇は馬子の系譜の古人の婿である。672年の壬申の乱は蘇我氏内の権力闘争で蘇我氏が壊滅した大戦争だったのだろう。大皇弟の蘇我赤兄の婿と考えられる有間皇子が敗れて、同族の蘇我山田石川麻呂の婿の大海皇子は筑紫都督府の中宮天皇に従い、天智天皇が畿内で成務を遂行した。壬申の乱は有間皇子の反乱と697年から704年の間に起こった、日並 (『新唐書』の天武天皇)と草壁の子の輕天皇との戦いである。

 天武天皇は浄御原御宇天皇と呼ばれる。そして、『古事記』は文武天皇の即位前、浄御原に天皇がいたと記す。天智天皇は近江で崩じた近江天皇、筑紫浄御原は大海皇子と草壁皇子が天皇である。草壁皇子薨去後、浄御原宮は日並の婿の高市太政大臣に任せ、藤原宮に遷ったようだ。

しかし、鸕野皇女が中国を後ろ盾に勢力を保ったのだろう。『大村骨臓器銘文』には清原宮→藤原宮→大宝元年と記され、日並は藤原宮(東宮)の天皇とわかる。東宮は聖徳太子、開別皇子、大皇弟(有間皇子)、日並が呼ばれる。九州俀国の首都に対する東国畿内の宮が東宮、それが皇太子と考えれば理に適う。

何故、大海皇子の朱鳥と文武天皇の大宝と改元したか。それは、筑紫で天皇だったからだろう。現代の元号は九州で建元された継体から始まった。文武浄御原天皇が筑紫で天皇になったから、大宝年号が建元され、中国人が筑紫都督府で見ていた。

2026年3月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇4

十年春正月己亥朔の蘇我赤兄の年始の挨拶は正しい日干支、670年だろう。二月戊辰朔の百済の遣使は俀国の暦、671年で正しいと考えられる。唐の駐留が始まり、百済の残務処理の相談なのだろう。五月丁酉朔の小殿での宴は俀国の暦、天武十年の宴と同じ記事かもしれない。六月丙寅朔の百濟三部の使人は正しい日干支、秋七月丙申朔は俀国の暦の百済記事は二月の記事の続きなのだろう。これ以降百済の使者の記事が無く、帰化した人々の記事のみになる。

八月乙丑朔の高句麗の使者も正しい日干支、百済と同じようだ。冬十月甲子朔の新羅の遣使は不明だが、新羅は百済での残党との戦況は思わしくなく、日本に使者を派遣する理由はある。

十一月甲午朔の筑紫君薩野馬の郭務悰の来日の先触れ記事は正しい日干支だ。六百人で恐れると記すが、天智八年には二千人、天智四年にも二百五十人が来日している。すなわち、それ以前の天智三年五月の来日記事と私は理解した。実際のこの来日は、筑紫都督府の高級官僚が来日したのだろう。天武元年は筑紫都督府元年と考えられる。

十二月癸亥朔の天皇崩は俀国の記事、694年の記録だろう。天武天皇即位前紀には天智十年を不明な四年と記す。天智即位は天智六年とする本があったと記すので、これは、ある本と書記編者が認めた記録の少なくとも2つの紀年があったことを意味する。一つは天智の長津宮元年、もう一つは白鳳元年である。従って、この四年は白鳳四年の孝徳天皇の崩御なのだろうか。

2026年3月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇3

  八年春正月庚辰朔は664年に遷都したと考えられる小墾田宮の八年、671年に蘇我赤兄が筑紫率に拝謁したのだろう。蘇我赤兄は数日前に左大臣になっている。三月己卯朔の耽羅遣使は正しい日干支、久麻伎遣使は673年と同じと考えられる。

夏五月戊寅朔の山科野の狩りは大皇弟が随行しているが藤原姓を名乗る鎌足を記す。『藤氏家伝』には、鎌足の葬に蘇我舎人臣が「内大臣朝臣」と呼び掛けている。朝臣は天武十三年に制定したとされている。すなわち、鎌足は692年に薨去した。690年に藤原への遷都を決め、692年遷都で、それを記念して藤原姓を与えられた可能性がある。この時、大嶋も藤原姓を名乗ったのだろう。そして、698年、不比等にのみ藤原姓の賜姓とした。朝臣制定時には藤原姓は含まれていない。 

筑紫都督府で統治した681年即位の草壁太子が大皇弟、草壁が日並にとっての大皇弟。すなわち、この時期の目線が日並からの目線の可能性が高い。秋八月丁未朔の高安城改修の中止、九月丁丑朔の新羅の遣使は正しい日干支、669年の記録と考えられる。唐からの命令なのだろう。

冬十月丙午朔の藤原内大臣家への見舞は俀国の暦、692年だろうか。それとも、この年に病気になったのだろうか。都督府の記録が俀国の、畿内の記録が正しい暦になったようだ。国名変更決定が影響したのだろう。唐の統治が始まった。

九年春正月乙亥朔の宮門内での大射、三月甲戌朔の中臣金連の祝詞、夏四月癸卯朔の法隆寺の火災は正しい日干支、670年の記録と考えられる。秋九月辛未朔の阿曇連頬垂を新羅に派遣したのは間違いの日干支、妥当な日が見当たらない。太陽暦の変換不良だろう。

年候補

9月辛未朔日 608 701

8月辛未晦日 644 737

9月辛未2日 391

2026年2月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇2

  四年春二月癸酉朔の間人大后の薨は俀国の暦、665年の出来事だろう。三月癸卯朔の間人大后のための三百卅人の出家は正しい日干支なので、違う年かもしれない。九月庚午朔の劉徳高派遣、十一月己巳朔の劉徳高饗応は俀国の暦、唐軍駐留が始まった。十二月戊戌朔の劉徳高への「賜物」は正しい日干支、白雉五年二月の劉徳高が船で帰った記事に続くのだろう。冬十月己亥朔の菟道訪問は正しい日干支、天智十年の記録、中宮天皇の宮五年なのだろうか。

五年春正月戊辰朔の高句麗の使者の能婁の来日は正しい日干支、夏六月乙未朔の能婁の帰国は俀国の暦、来日は朝鮮の記録なのだろうか。冬十月甲午朔の高句麗奄𨛃(あむす)の来日は俀国の暦、666年の記録で正しいだろう。

六年春二月壬辰朔の天豐財重日と間人皇女の合葬は正しい日干支、680年以降の記録だ。間人皇女が義姉妹での合葬は奇異だが、親子ならば理解できる。十一月丁巳朔の劉仁願の記録は正しい日干支、熊津都督府の記録可能性がある。

七年春正月丙戌朔は間違いの日干支、695年の日並の即位の可能性がある。また、浄御原七年、679年に中宮天皇が禅譲した可能性もある。二月丙辰朔の倭姫の皇后即位は俀国の暦、668年であっているだろう。夏四月乙卯朔の百済の使者来日は正しい日干支のため、いつのことか不明だ。高句麗も百済も王はこの年に退位したが、崩じて支持する土地や住民が消えたわけではない。668年に来日した記録が、公式ではなく、私的に旧倭国の豪族への訪問だった可能性がある。秋九月壬午朔と十一月辛巳朔の新羅の使節は俀国の暦、668年でよいだろう。

 

年候補

丙戌12 695(6941229日晦日)

丙戌2月朔日 668

2026年2月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇1

     天智天皇紀は662年から671年と655年、そして685年から694年の記録が入り混じっていると考えられる。『日本世記』は『古事記』と似た紀伝体の記録と考えられるから、天智自身、白鳳、朱雀、朱鳥、長津宮、近江宮、浄御原宮などの紀伝が入り混じっているのだろう。晦日と朔日を区別する正式な日干支の暦と、中国が駐留するためなのか、中国式の晦日を朔日と混同する暦が入り乱れる。それを、編年体に纏めたのが天智紀である。

元年春正月辛卯朔と三月庚寅朔の百済への援助は俀国の暦、662年で、俀国が入鹿に命じられたのだろう。この時、六月己未朔の百済の返礼、冬十二月丙戌朔と二年春二月乙酉朔の百済の避城遷都、州柔帰還、夏五月癸丑朔の高句麗への説明は正しい日干支、倭国の記録だろう。秋八月壬午朔は俀国の暦、筑紫から白村江へ出航した記録なのだろう。九月辛亥朔の百済降伏は正しい日干支、倭国の記録のようだ。

三年春二月己卯朔の大皇弟の廿六階は俀国の冠位ならば663年でも有りうる。天智即位三年の670年二月に671年制定する冠位法度を創るように命じたのだろうか。大皇弟は中宮天皇が即位しないと大皇弟といえない。夏五月戊申朔、冬十月乙亥朔、十二月甲戌朔の郭務悰来日、平伏、帰国は正しい日干支、664年、乙巳の変の原因だ。唐への逆賊の入鹿と嶋皇祖母を排除した。

2026年2月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇2

四年春正月甲申朔は正しい日干支、左大臣巨勢徳太の薨去だが、左大臣の出現は蘇我大臣以降の664年以降と考えられるので、677年の説話と考えられる。左右大臣にはそれ以上の太政大臣などの天皇以外の人物が存在した可能性が高い。秋七月辛巳朔の蝦夷朝獻は俀国の暦、658年で正しい。蝦夷は高句麗が支援していたのだろう。高句麗の勢力が弱まり、倭国に支援を求めたと思われる。正しい日干支の冬十月庚戌朔の建皇子の薨は677年の説話だろう。

十一月庚辰朔の有間皇子の反乱は俀国の説話で658年なのだろう。蘇我赤兄がまだ大臣になっていない。俀国の内紛で、天豐財重日が王位に就いたのに不満があったのだろう。有間皇子が20歳以上なら有間皇子が俀国王になるはずだったと思われる。

五年三月戊寅朔の天皇の吉野幸は正しい日干支で678年の事だろう。秋七月丙子朔の唐遣使は678年の記事、坂合部連の小錦下の冠位は664年の制定だ。六年春正月壬寅朔も正しい日干支、679年の記事で、高句麗が滅亡し、筑紫に亡命者が百人余、遣ってきた。夏五月辛丑朔は俀国の暦、俀国の暦なので660年の記録なのだろう。660年の高句麗使者の乙相賀取文が679年に亡命してきたのだろうか。十二月丁卯朔の百済救国軍派遣は俀国の暦、660年の説話だ。倭王の命令なのだろう。

七年春正月丁酉朔の西征、三月丙申朔の娜大津帰還、五月乙未朔癸卯の朝倉遷都は正しい日干支、680年の説話だろう。661年は白村江の前夜の帰還は奇異だ。『三国遺事』に開耀元年(681年)、新羅文武王が倭を鎮めたいと願って感恩寺を創建している。朝倉遷都も倭国にとって、朝倉は無関係だが、俀国にとっては故地、中国が進駐している筑紫都督府にも近い。

秋七月甲午朔の天皇崩は正しい日干支、680年に崩じた中宮天皇は11月に崩御なので、漢王の薨去だろうか。八月甲子朔、冬十月癸亥朔の天皇喪、難波へは俀国の暦661年である。十一月壬辰朔の飛鳥川原の天皇の喪は俀国の暦だが、680年の喪の可能性も捨てられない。川原宮と無関係とは思えない川原寺は673年から686年まで『日本書紀』に出現する。

2026年2月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇1

  斉明天皇の記事は655年から661年と674年から680年の記録が混じっていると考えられる。九州の暦がこの時の常用の暦、『日本書紀』の編纂者は正しい日干支に、記録を当てはめたと考えられる。斉明前紀の「橘豐日天皇之孫」の橘豐日は『新唐書』の「用明亦曰目多利思比孤」の法興帝の可能性がある。子が漢王と妹の大俣王、婿が彦人、子が茅渟王、おそらく、茅渟王は漢王の娘を妃にしたのだろう。一代の抜けがあり、その子が高向王(天萬豊日・筑紫君薩夜麻)と考えられる。

天萬豊日の妃が間人皇女、その子が天豐財重日、婿も漢王と考えられる。天豐財重日は倭国の舒明天皇の妃では年代が合わない。天豐財重日の再婚相手が蘇我赤兄か石川麻呂ならば、相応しい。筑紫君薩夜麻は百済で囚われの身、天豐財重日が王位を代行したようだ。再婚しているのだから、漢王は薨去している。

元年春正月壬申朔は正しい日干支だが、674年に飛鳥板盖宮に遷都したのだろう。672年に中宮天皇は浄御原に遷都したので、680年は『薬師寺東塔の擦管』の「清原宮馭宇天皇即位」八年にあたる。夏五月庚午朔も正しい日干支、龍に乗る者を見た。唐を恐れた説話でやはり674年の唐軍が駐留していたので、恐れをもって唐を見ていたのだろう。秋七月己巳朔は俀国の日干支、蝦夷と百済人が亡命してきた。唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍の戦いがあり、唐が翌年、帰って行った。百済は敗れ日本に亡命してきたのだろう。正しい日干支の八月戊戌朔の唐への使者が帰った記事、冬十月丁酉朔の小墾田再建記事だが、655年なのだろう。唐との交渉が失敗し、小墾田再建後、嶋皇祖母は遷都した。

二年秋八月癸巳朔は俀国の暦、高句麗からの使者の説話で、援助を求めたのだろう。二年秋八月癸巳朔は正しい日干支、覩貨邏国人の漂流記事だが、675年の記録の可能性が高い。

2026年2月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 白雉

白雉年間は、孝徳天皇の崩御が記されるのだから、650年から654年の記録と660年から664年の白鳳の記録が混じっている可能性が高い。

白雉元年春正月辛丑朔の味經宮の賀正禮と二月庚午朔戊寅の白雉献上は正しい日干支である。二月庚午朔戊寅は「正月九日於麻山獲焉」と俀国の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じ記法だ。正しい日干支に正しい日付である。 二年春三月甲午朔の丈六の繍像の完成、 三年春正月己未朔と三月戊午朔の大郡幸も正しい日干支である。これらの記録は次に記述する記録の時期を示すための記述のように感じる。俀国の白雉改元や倭国の戸籍の完成などの記録を朝廷の暦に接合するための記事だったのではないだろうか。 夏四月戊子朔の無量壽經の講義は俀国の記録、筑紫の記録と考えられる。

四年夏五月辛亥朔の唐への遣使は正しい日干支、653年の記録だろう。五年春正月戊申朔の「鼠が倭都へ」は正しい日干支、次項の中臣鎌足への紫冠授与の日付のための説話を含めたのだろう。遷都はこの時期にしたわけでもないが、記した理由だろう。白鳳五年665年の記録で、664年の大綿冠授与を本来記すべきだったのだろう。秋七月甲戌朔は正しい日干支、百済と新羅が筑紫に向かったのだから、百済滅亡前、654年の記録だ。

冬十月癸卯朔の天皇病疾は正しい日干支、664年の記録だ。十二月壬寅朔の大坂磯長陵埋葬も正しい日干支、664年の記録である。10年の欠落は、倭国滅亡時になくなった、記録を示している。

2026年2月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 大化2

  三年春正月戊子朔は正しい日干支、新羅と高句麗が遣使した。『日本世記』の元資料なのだろうか? 夏四月丁巳朔も正しい日干支、「我子應治」と天智に国を任せた。667年の事なのだろう。「與天地之初 君臨之國也」と新しく出発しようという意気込みだ。天智七年正月(668年)の天智即位記事の「或本云 六年歳次丁卯三月即位」がこれに対応する。唐の進駐軍のため小郡宮を建て替えた。冬十月甲寅朔の有間温泉行は俀国の暦、647年かやはり667年の記事なのだろう。正しい日干支は記録に残っているので、それを流用したと思われる。

正しい日干支の四年春正月壬午朔の難波碕宮幸は668年なのだろうか。中宮天皇が難波碕宮で神を祀り、天智天皇が難波碕宮に行幸したのだろう。最高実力者が元旦に皇居から出ることはないだろう。正しい日干支の二月壬子朔の三韓に僧を派遣したのは648年なのだろう。夏四月辛亥朔は俀国の日干支、古い冠位を廃止した。左右大臣が古冠を使い続けているので、668年と考えられる。白鳳5年、鎌足は紫冠を賜り、647年の冠位が続いている。

五年春正月丙午朔の賀正は間違いの日干支、2月朔日が丙午だ。倭国の太陽暦の変換ミスなのだろうか。この2月に大紫を含む官位を制定して、入鹿が大紫を得ている。三月乙巳朔の阿倍大臣薨は俀国の暦、669年の記録だろう。阿倍夫人が681年薨なのだから、相応しい。

夏四月乙卯朔甲午の冠位授与は間違いの日干支、乙卯と甲午は一月以上離れている。668年か倭国の太陽暦の変換ミスで、649年の記録だろうか。五月癸卯朔新羅遣使も間違いの日干支、該当する年が無く、太陽暦と考えられ、649年の記録だろうか。三輪君色夫の小華下の冠位は647年に制定された倭国の冠位だ。

 

年候補

丙午 1月朔日 582 675 768

丙午 12月晦日30 431 710

丙午 12(12月小月) 607 731

 

乙卯 4月朔日 637 668

2026年2月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝徳天皇・大化1

天萬豊日が即位した。『新唐書』が言うように天豐財重日の父、子の有間皇子が太子だったが、娘が皇位を継承した。『日本書紀』の大皇太弟天武は中宮天皇の弟の有間皇子の可能性が高い。有間皇子と蘇我赤兄が起こした謀反で赤兄が許されるとは思えない。赤兄の婿が天武天皇、有間皇子が婿ならよく理解できる。孝徳天皇の項目がない理由は、即位数ヶ月後、俄かに崩御したからだ。大甦娘が美濃津子娘と考えれば、大海皇子が蘇我倭国の皇位継承の正当性を持つ。

大化元年七月丁卯朔は正しい日干支、おそらく、茅渟王の娘の間人を皇后にした。天豐財重日の母なのだろう。664年の記録である。中宮天皇が即位した665年に間人大后と呼ばれ、薨去している。八月丙申朔も正しい日干支、戸籍を創った。戸籍は顕宗元年に押磐を山部連の籍に入れたとあり、戸籍制度は既にあった。九月丙寅朔も正しい日干支、兵力を調査した。665年若しくは695年の可能性がある。冬十二月乙未朔の難波長柄豐碕遷都は皇極四年にも記され、645年と664年と665年、倭国と俀国の首都なのだろう。

二年春正月甲子朔は間違いの日干支、645年12月30日で、「改新之詔」の名が大化の改新ならば、696年なのだろう。挿入間違い? 二月甲午朔は正しい日干支、蘇我右大臣に詔勅させたのだから666年だろう。野中寺の『銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と中宮天皇の具合が悪かった。だから、代読させたのだろう。三月癸亥朔は正しい日干支、東国の臣下に詔勅を述べた。『那須国造碑』で永昌元年689年に那須国造が追大壹を得ていりので、それ以前、やはり、詔勅は666年のことだろう。俀国王は常用が九州の暦、正しい日干支は借り物の暦と理解するべきだろう。

 

年候補

甲子 1月朔日 677

甲子 12月晦日30 645

2026年2月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇3

   五月庚戌朔は俀国の日干支、5月2日の干支である。月食は15日に発生するので癸亥に発生したが、2日ズレ、17日の乙丑にしてしまったのだろう。六月己卯朔は正しい日干支、高句麗からの遣使だ。秋七月己酉朔は俀国の暦、百済国が朝廷に調を献上したが、不和があったと記している。俀国に都合がよい記録である。八月戊申朔は正しい日干支、茨田池に藻が異常発生したようだ。九月丁丑朔は俀国の日干支、茅渟王の埋葬なのだろう。640年に改元しているので、豊浦王と同時期に崩御したのだろうか。冬十月丁未朔は正しい日干支、朝堂庭に臣下を集め、地位の継承を宣言した。吉備嶋皇祖母から鎌媛大刀自に女王の政権交代があった。子の蝦夷が成人していたなら、最初から即位している。十一月丙子朔は俀国の暦、山背大兄王を攻撃した。『舊事本紀』が嶋大臣の子の豊浦大臣を蝦夷なのに入鹿と記すのと同様の一世代削除の現象があるのだろう。

三年春正月乙亥朔の中臣鎌子を神祗伯にしようとしたのは俀国の暦だ。藤原氏の『家傳』には崗本天皇の世に錦冠を得、三島の別業に帰ったと記され、すぐに「俄而崗本天皇崩」と記される。そして、錦冠を賜ったが、すぐに紫冠を白鳳五年665年に賜った。それは、天萬豐日天皇が俄かに崩御し、庶務を委ねられた皇太子から賜ったと記されている。すなわち、俀国の暦の記述は中宮天皇の記録を挿入した、665年正月朔日の記録を643年12月晦日、俀国歴664年1月朔日に挿入したということだ。夏六月癸卯朔は正しい日干支、大伴馬飼が百合を献上した。

四年夏四月戊戌朔は俀国の暦、学問僧の鞍作得志の高句麗帰国の説話なので、朝鮮の暦かもしれない。六月丁酉朔は正しい日干支、乙巳の変の計画だ。664年の大紫蘇我連大臣(入鹿)と嶋皇祖母(法提郎)の崩御にあたる。

2026年2月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇2

    元年春正月丁巳朔は正しい日干支、皇后が即位した。入鹿の説話は斉明天皇の時代の記録と考えられる。二月丁亥朔も正しい日干支、百済と高句麗との外交だ。新羅との戦いが始まり、どう対抗するかを話し合ったのだろう。三月丙辰朔も正しい日干支で天候の記事、その後に新羅の使節記事、来て帰ったとそっけない。会談は失敗したのだろう。夏四月丙戌朔も正しい日干支、百済の翹岐が来日し、蘇我大臣と会った。

五月乙卯朔己未も正しい日干支、5月5日薬狩りの日だが射猟。この年の夏至は5月18日、その頃に薬狩りをしたのだろうか。但し、その日に百済の使者が遣ってきた。六月乙酉朔も正しい日干支、大旱魃で、やっと小雨が降る異常気象で、秋七月甲寅朔も正しい日干支で、不吉の象徴だったのだろう。八月甲申朔も正しい日干支でやっと大雨が降った。

九月癸丑朔は俀国の暦、畿内は寺、造船は俀国に命じたのだろうか。冬十月癸未朔も正しい日干支、大地震があった。十一月壬子朔は俀国の暦、九州で大きな雷雨があったのだろう。十二月壬午朔も正しい日干支、まだ異常気象が続いたようだ。

二年春正月壬子朔も正しい日干支、大きな虹が架かったようだ。二月辛巳朔に桃の花が咲き、三月辛亥朔に百済の客舘堂が焼け、夏四月庚辰朔に大風雨、すべて正しい日干支で、1年近く異常気象が続いた。

2026年2月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇1

皇極天皇から天智天皇の説話は大化中の天皇(701年以降703年迄)が記した記録が基本線である。天智天皇の子や孫の死亡時の年齢、不比等の死亡時の年齢から、乙巳の変は664年、白鳳4年のことだ。すなわち、六月丁酉朔戊申が正しい日干支でも正しいと言えないことになる。

倭国は太陽暦の併用、俀国は中国風の暦、そして、朝廷の公式文書は正しい日干支、これらが混在した。大化6年以降の天武天皇が稗田阿禮に記させた内容は『古事記』と同じく蘇我氏の太陽暦の内容だった。そして、出来上がったのが『日本世記』、712年に元明天皇の手に入った。それに、天武・持統紀を付け加えて編纂したのが『日本書紀』である。

安萬侶を天武紀の壬申の乱に記さないのは、この時まだ幼少で7歳程度、723年卒去で60歳程度だった。実際の壬申の乱は700年頃、安萬侶は天智天皇の子の天武天皇に仕えた可能性が高い。

642年から664年までの記録は乙巳の変で焼かれ、他氏族の記録を寄せ集めただけだ。それぞれの氏族の記録は住んだ宮の経過年数が解るだけだっただろう。世代が変わっても襲名するから同一の名前である。二世代目も1年から始まって重複したかもしれない。したがって、『日本世記』は絶対年が不明な紀伝体だった。それを、『日本書紀』の絶対年の編年体に置き換えた。すなわち、大化元年は中宮元年、白雉元年は俀国の孝徳元年、天智元年は白鳳元年ということだろう。乙巳の変や壬申の乱は元明天皇が名付けた戦乱なのだろう。大化の改新を名付けたのが歴史家であるように。

2026年2月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇3

  九年春二月丙辰朔の流星も正しい日干支、三月乙酉朔丙戌の日蝕は俀国の日干支だ。2日に日蝕は起こらないし、乙酉は30日晦日、丙戌が朔日だ。

十年秋七月丁未朔の大風、十一年春正月乙巳朔の有馬温泉からの帰京は正しい日干支、冬十一月庚子朔の新羅饗応も正しい日干支だ。新羅が高麗から攻撃を受けたので、友好国の倭に使節を新羅が送ったのだろう。

十二月己巳朔も正しい日干支、伊豫温泉に向かい、十二年春二月戊辰朔の星入月も正しい日干支だ。夏四月丁卯朔の伊豫から廐坂宮へ向かったのは俀国の暦、俀国王のようだ。正しい日干支の五月丁酉朔の法会、冬十月乙丑朔は新羅が百済を引き連れて来日した。百済は義慈王の即位直後、唐に朝貢したので、新羅の配下という建前なのだろう。

十三年冬十月己丑朔も正しい日干支で、天皇が崩じた。付け加えた丙午の天皇への誄は664年、天萬豊日孝徳天皇の崩御に対してだろう。この時、天智は16歳なのだから、また、実際は生まれていないので即位できず、668年に成人して即位と記された。661年に13歳なので、太子になった。舒明紀を編んだのは天智天皇、天智天皇に都合よく記すことができる。元正天皇の都合で大化を皇極天皇の後ろに挿入している。元正天皇の王朝は大化六年に始まったからだ。

皇極天皇は豊浦大臣の妃の吉備嶋皇祖母、すなわち田目皇女(鎌媛大刀自)だろう。蝦夷がまだ成人していなかったので、即位できなかったのだろうか。鎌媛大刀自は小治田・豊浦宮の参政なのだから、豊浦大臣妃の吉備嶋皇祖母、小治田と豊浦の皇祖母を意味したのだろう。

2026年2月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇2

  元年春正月癸卯朔は正しい日干支、豊浦皇子が天皇の璽印を得た。璽印は推古と舒明のみの記述で、法興帝が天子という地位に相応しい皇帝の印を作らせたのだろう。それを受け取ったのが推古前紀、日付を特定しない。そして、倭国に臣従する記しとして、舒明元年に舒明天皇に献上した。それ以前は「」、「天皇のしるし」だった。変わったのは俀国王が中国風の璽印を推古即位以前591年・法興元年に作ったからなのだろう。それを、天智政権が挿入したと考えられる。

夏四月辛未朔は俀国の暦で、屋久に使者を送った。「寶皇女爲皇后」の二年春正月丁卯朔は不明な日干支、候補日は665年のみだ。やはり、太陽暦の影響だろうか。中宮天皇の子たちの説明で、無関係とは言えない。三月丙寅朔、秋八月癸巳朔、九月癸亥朔は中国・朝鮮外交で正しい日干支だ。冬十月壬辰朔も正しい日干支、岡本宮遷都である。

三年春二月辛卯朔の掖玖人帰化、三月庚申朔の豊章人質も正しい日干支である。秋九月丁巳朔、冬十二月丙戌朔の温泉旅行も正しい日干支だ。四年冬十月辛亥朔、五年春正月己卯朔の対唐外交も正しい日干支である。百済外交で七年夏六月乙丑朔は正しい日干支、秋七月乙未朔は俀国の日干支である。この年は新羅が唐から楽浪郡公に賜姓され、百済は追い詰められたため、俀国にも支援を申し入れたのだろう。

八年春正月壬辰朔の日蝕は正しい日干支、秋七月己丑朔の労働時間の制定も正しい日干支である。大派王、世代的に大俣姫の子の茅渟王が舒明天皇に進言した。桑田姫が高向王の妃と考えている。

卯始朝之 巳後退之」は5~7時の夜明けから日没までの12時間前後と私は考えている。時間を計るのは太陽、午刻ならば昼までで理解できるが、巳刻は計れない。日の出から日没、一刻の長さが季節によって違う時代、標準時など無い。

 

年候補

丁卯130日晦日  665

2026年1月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇1

  夏四月壬午朔辛卯の雹零は推古・舒明期間中に当てはまらず、全く不明である。但し、辛卯の日は4月15日、『古事記』の豊御食炊屋比売の崩御が3月15日、偶然なのだろうか。倭国は太陽暦、陰暦への換算ミスか。四月壬午は6日、3月6日は『日本書紀』の推古天皇の崩御日である。これも偶然か。推古・舒明・乙巳の変は天智天皇が記させた、天智天皇に都合の良いものだ。聖徳太子が記されたのも、俀国皇太子だったのだから当然だ。

舒明天皇が彦人大兄の子としているが、舒明天皇は倭王なのだから、豊浦大臣、田眼皇女(鎌媛大刀自)が皇后である。彦人大兄の子というのは、俀国の王が彦人の子の茅渟王だったのだろう。日本の史書は兄弟の妃も天皇の娘に組み込まれた。太子たちの彦人・豊浦・麻伊古の妃を彦人の妃に組み込んだのだろう。例えば、用明天皇の妃は豊御食炊屋姫の婿の親や、義理の姉妹を組み込んだ。葛城直磐村の娘の廣子と息長眞手王の娘の廣姫は同一人物、子の麻呂子(彦人)、菟道磯津貝皇女も酢香手姫も伊勢の女王になった。

舒明天皇息長足日廣額の名は息長眞手王の娘の子だからだ。田村王の子ならば田目皇子が可能性大だ。したがって、秋九月己巳朔の推古帝の殯も俀国の暦の634年くらいしか当てはまらない。俀国王の彦人の崩御だろうか。628年、恵佐古大連が崩御し、布都姫の後継者の鎌媛大刀自が夫の豊浦(田目)皇子に皇位に就かせたのだろう。倭国政権の誕生だ。皇太子は蝦夷、626年推古卅四年に馬子が薨じ、後を継いで豊浦皇子が倭王、皇太子蝦夷が大臣である。

 

年候補

壬午4653 330日晦日 596

己巳830日晦日  634 9月朔日 598

2026年1月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇5

  廿七年夏四月己亥朔、廿八年十二月庚寅朔の珍現象は正しい日干支、畿内の記録だ。『舊事本紀』廾八年春二月甲午朔は間違いの日干支で『舊事本紀』の編纂は646年のこと。蘇我右大臣に、「侍卿、臣連 國造、伴造及諸百姓」を集めさせて即位を宣言した。この時、『舊事本紀』の作成と『日本書紀』の推古・舒明朝の記録を命じたのではないだろうか。一年で『舊事本紀』をまとめ切れるとは思えない。春三月甲子朔の「君后不忠者・妣に対する不孝者・それを隠した者」を重罪と宣言したのも646年だろう。

廿九年春二月己丑朔の「厩戸豐聰耳皇子」の薨は正しい日干支、麻伊古の薨去だったのだろうか。麻伊古の大連の賜姓は無いが、大連と記され、太子だった可能性が高い。上宮法皇は622年、「法興元丗一年歳次辛巳」621年の翌年の二月廿二日に薨去している。『舊事本紀』も壬午年622年だ。以降、俀国の記録が1年のズレを生じさせた。

卅二年夏四月丙午朔の「歸三寶具懐戒法」は前年、秋九月甲戌朔「校寺及僧尼」も、冬十月癸卯朔も前年の623年、この王は馬子の甥、彦人の子の茅渟王のようだ。卅三年春正月壬申朔は前年の624年、高麗王が僧惠潅を派遣した。隋と敵対する俀国と友好に務めたのだろう。これに対して夏五月戊子朔の大臣薨去は正しい日干支である。

卅六年春二月戊寅朔の「天皇臥病」は間違いの日干支で654年のようだ。654年に「高麗 百濟 新羅遣使奉弔」と弔問にやってきている。この頃、『古事記』から解るように、倭国は太陽暦を使用していたようで、崩御の戊子年の三月十五日癸丑、三月癸丑の日はピッタリだ。

三月丁未朔戊申の「日蝕」の日干支は九州の暦、戊申の日が朔である。2日に日蝕は起きない。

 

年候補

甲午2月朔 584 646

甲子3月朔 589 646

年候補

丙午4月朔 623 654

2026年1月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇4

  十七年夏四月丁酉朔、五月丁卯朔は正しい日干支、百済外交で倭国の記事だろう。十八年冬十月己丑朔は俀国の暦、新羅との記事である。廿年春正月辛巳朔も俀国の暦、酒宴の記事だ。歌の中に「於朋耆彌(おほきみ)」、『俀国伝』の「阿輩雞彌」は同一人物なのだろうか。

廾年春二月朔は正しい日干支、「改葬皇大夫人堅鹽媛」は『古事記』の橘豊日の妃の「意富藝多志比賣(おほぎたし)」、『日本書紀』の石寸名(いしきな)と考えられる。堅鹽媛は推古五年に薨去していたのではないだろうか。推古即位は39歳推古五年である。崇峻崩後の5年間は天皇が居ないことになる。推古五年まで、皇大夫人が最高権力者だったのではないだろうか。

廿一年十二月庚午朔は正しい日干支、片岡に遊んだ太子は麻伊古だろうか。廿二年六月丁卯朔、廿三年十一月己丑朔は俀国の暦だが、百済は俀国と対立しているので、百済の記録なのだろう。朝鮮も中国の暦を使っている。

『舊事本紀』では廿二年六月丁卯朔の日干支の時に、麻伊古に代わって物部恵佐古連が大連(太子)になった。聖徳太子はまだ生存中だ。廿六年秋八月癸酉朔は正しい日干支、高麗からの貢献で、秦王国の記事だ。倭国は隋に朝貢しているのだから、隋と対立した高麗は倭国に朝貢しないだろう。

『舊事本紀』の廾七年冬壬戌朔は間違いの日干支、630年11月だろうか。この冠位制定は、秦王国から見た冠位、『日本書紀』では推古十二年604年、おそらく、倭国の冠位だったのだろう。秦王国の崩壊は629年の舒明即位によってだった。翌年、倭国の冠位を受け入れたのだろう。

 

年候補

冬壬戌朔(1012)

壬戌12月朔604年 10月朔625 11月朔630 12月朔661