十七年夏四月丁酉朔、五月丁卯朔は正しい日干支、百済外交で倭国の記事だろう。十八年冬十月己丑朔は俀国の暦、新羅との記事である。廿年春正月辛巳朔も俀国の暦、酒宴の記事だ。歌の中に「於朋耆彌(おほきみ)」、『俀国伝』の「阿輩雞彌」は同一人物なのだろうか。
廾年春二月朔は正しい日干支、「改葬皇大夫人堅鹽媛」は『古事記』の橘豊日の妃の「意富藝多志比賣(おほぎたし)」、『日本書紀』の石寸名(いしきな)と考えられる。堅鹽媛は推古五年に薨去していたのではないだろうか。推古即位は39歳推古五年である。崇峻崩後の5年間は天皇が居ないことになる。推古五年まで、皇大夫人が最高権力者だったのではないだろうか。
廿一年十二月庚午朔は正しい日干支、片岡に遊んだ太子は麻伊古だろうか。廿二年六月丁卯朔、廿三年十一月己丑朔は俀国の暦だが、百済は俀国と対立しているので、百済の記録なのだろう。朝鮮も中国の暦を使っている。
『舊事本紀』では廿二年六月丁卯朔の日干支の時に、麻伊古に代わって物部恵佐古連が大連(太子)になった。聖徳太子はまだ生存中だ。廿六年秋八月癸酉朔は正しい日干支、高麗からの貢献で、秦王国の記事だ。倭国は隋に朝貢しているのだから、隋と対立した高麗は倭国に朝貢しないだろう。
『舊事本紀』の廾七年冬壬戌朔は間違いの日干支、630年11月だろうか。この冠位制定は、秦王国から見た冠位、『日本書紀』では推古十二年604年、おそらく、倭国の冠位だったのだろう。秦王国の崩壊は629年の舒明即位によってだった。翌年、倭国の冠位を受け入れたのだろう。
年候補
冬壬戌朔(10~12月)
壬戌12月朔604年 10月朔625年 11月朔630年 12月朔661年
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