2026年1月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇1

  推古天皇は『舊事本紀』によれば、576年18歳で妃になり、天皇は592年34歳で崩御した。592年崩御した天皇は崇峻天皇(守屋)で、崇峻天皇の婦人は布都姫夫人である。『舊事本紀』は『古事記』も『日本書紀』も知っているので、皇妃になった歳、死別した歳、天皇の在位期間5年を知っている。39歳即位は両書に対応させた結果だろう。『新唐書』は多利思北孤が用明天皇と理解しているので、推古天皇時は崇峻と用明は同時に天皇だったと理解されているはずだ。

豐御食炊屋姫の娘婿は俀国王と考えられる彦人、俀国皇太子聖徳、倭国初代天皇舒明だ。彦人は『隅田八幡神社人物画像鏡』によると、推古三十一年・623年に大王になったようだ。上宮法皇が薨去したのが622年、翌年皇太子を引き継いだのだろう。彦人の妃は贄古大連と布都姫の娘の小墾田皇女だ。小墾田宮で生まれたから小墾田皇女と名付けられるのは合理的だ。

入鹿は乙巳の変が664年に起こっているので、年齢的に鎌媛大刀自の孫にあたる。入鹿の祖母が弓削大連の妹、守屋の子が弓削と鎌媛大刀自(田眼皇女)、田眼皇女の夫は豊浦舒明天皇、子が蝦夷、孫が入鹿だ。菟道皇女は東宮聖徳妃、593年に皇太弟になった上宮法皇の妃によく合致する。

『舊事本紀』の冬十二月壬申朔の「皇后即天皇」は俀国の暦、東漢直駒の妃の河上娘が倭王に即位したのだろう。推古紀を記したのが蘇我氏、理に適う。推古天皇が39歳で即位となっているのだから、それまでは駒が倭王だったのかもしれない。元年春正月壬寅朔は正しい日干支、法興寺が建設中である。法興帝が即位した記念に建立するのは理解できる。法興帝の畿内出張所なのかもしれない。法興寺建立が588年の崇峻元年になっているが、『舊事本紀』に従うならば、593年になる。「法興」という漢語、文字が普及した秦王国と法興帝、どちらが相応しいのだろうか。

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