用明二年八月癸卯朔は正しい日干支、崇峻天皇が即位した。『日本書紀』は大臣が蘇我馬子宿禰、『舊事本紀』では誰も賜姓されていない。馬子すら大臣と記していない。『舊事本紀』においては、守屋が敏達十四年九月から大連という天皇だ。布都姫が皇后である。
倭国は崇峻元年三月に長谷部若雀が稲目の王朝を継承した。稲目の娘の小姉君の婿の薨後、小姉君の娘の穴穗部間人が倭女王、皇祖母となった。倭王位は夫から兄弟に遷ったに過ぎず、最高権力者は変わっていない。崇峻天皇に皇后が記されない理由だ。
大伴糠手連の娘の小手子は日付を記述せず『古事記』にも記述がない。これは、俀国の記事と考えられる。馬子の子が夫ならば、馬子の娘婿が俀国皇太子と思われる東漢直駒と、互いに姻戚関係を密にしたことになる。政略としては理に適う。馬子の妃は不明だが、目大連の子に馬古が存在し、目大連、すなわち大伴氏(?小手子)の婿になったのだろう。同世代に有名人同士が同名はないのでは?
二年秋七月壬辰朔は正しい日干支、東国視察の記事は守屋が東方も勢力下にしたのだろう。四年夏四月壬子朔も正しい日干支、「葬譯語田天皇」は奇異で、591年は法興元年、前俀国王を埋葬したのだろうか。ただし、俀国は晦日が朔なので、倭王や秦王国王が参列した記録なのだろうか。それとも、小姉君が薨じたのだろうか。秋八月庚戌朔、冬十一月己卯朔は正しい日干支、朝鮮関係の外交は秦王国と倭国が完全に主導権を得たようだ。
五年冬十月癸酉朔も正しい日干支で、守屋と馬子の確執の発端となった。そして、十一月癸卯朔も正しい日干支、馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が泊瀬部天皇を殺害した。
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