推古紀と舒明紀は倭国政権が記した。推古朝は秦王国の物部氏の政権ではあるが、倭国が実質権力者だったと考えられる。
元年夏四月庚午朔は俀国の日干支、立太子は、上宮法皇の説話で廄戶豐聡耳は「利歌彌多弗利」である。多弗が塔ならば、上塔、上宮とよく合致する。二年春二月丙寅朔は正しい日干支、「令興隆三寶」の太子は贄古の弟の麻伊古大連と考えられる。大連が二人同時に存在するのは、天皇の夫と皇太子が対等ということを示す。
『舊事本紀』の二年春三月丙寅朔は間違い、4月2日と考えられ、俀国の記録を正しい日干支に変えた可能性も否定できない。畿内では敏達六年にも造寺工が来て、大別王の寺を改修した。敏達十四年にも守屋が寺に詣でている。この年に寺を焼いたとある。用明二年にも攝津国に四天王寺などを建立、崇峻三年には櫻井寺があった。ただし、四天王寺は推古元年に造り始めているので、崇峻元年が推古元年のことである。
三年五月戊午朔は正しい日干支、高麗僧の惠慈が帰化した。高麗は秦王国の友好国、太子は麻伊古大連の可能性が高い。五年夏四月丁丑朔も正しい日干支、倭・秦王国の記事で、百済が朝貢した。
冬十一月癸酉朔は俀国の暦、新羅に使者を派遣し秋波を送っている。俀国は新羅、倭国は百済と友好国が決まり、白村江に繋がったのだろう。それに対して、新羅は六年秋八月己亥朔、正しい日干支、孔雀を秦王国に送った。冬十月戊戌朔は俀国の暦で、越が白鹿を献上した。外交の主導権を争っている。
年候補
丙寅3月朔 599 630年
丙寅2月30日晦日、3月2日該当なし
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