2026年1月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇1

   539年冬十二月庚辰朔の天國排開廣庭の即位は正しい日干支で天國排開廣庭、大伴金村、物部尾輿、蘇我稻目宿禰が俀国、秦王国、倭国の天皇や太子になった。皇后を皇太后としたということは、秦王国の天皇である新皇后が決まったことを意味している。雄略天皇が皇太后を贈って以来の皇太后だ。皇太后は王朝交代時のセレモニー。伝統に法る秦王国誕生と考えられる。

また、『舊事本紀』はこの539年を元年としているので、欽明元年540年は倭国稲目の元年なのだろう。即位時が「時年若干」、廣國押武金日が435年に崩じ、皇太弟の初代稲目の武小廣國押盾も戦乱で崩じ、稲目は19歳で成人していなかったのだろう。そのため、年が明けて20歳で成人となり、元年となる。短期間の王の交代は正常な状況とは思えない。

 二月壬申朔の百済人の倭国投下は正しい日干支で、稲目の記録だろう。倭は太陽暦、正しい日干支に変換したのだろう。三月壬寅朔の蝦夷・隼人の帰属は3月2日、前月は小の月で俀国の暦だ。上殖葉の記録なのだろう。俀国は欽明十七年に葛子の婿と思われる火君と葛子の実子の火中君兄弟が即位しているので、火中君が皇太弟で、共に若いのだろう。

 秋七月丙子朔の遷都は正しい日干支で稲目が磯城嶋宮に住まいを遷した。九月乙亥朔の難波祝津宮行幸も正しい日干支で秦王国の首都が難波祝津宮のようだ。稲目が難波に参内、百済と通じて、任那の管理をした金村と倭王・秦王国王が対立したのだろう。二年冬十一月丁亥朔の津守連の任那派遣も正しい日干支、秦王の記録だ。

 七年春正月甲辰朔の百済の使者の帰国は九州の暦、百済に馬や船を与え、友好関係が見える。夏六月壬申朔は正しい日干支、秦王に百済が調(税)を納めた。九年春正月癸巳朔は九州の暦、百済の救援の依頼に助けると返事している。『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」はこの時派遣されたのだろうか。

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