2026年1月24日土曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇3

  七年夏四月乙未朔、秋九月癸亥朔は正しい日干支、大地動が発生し、百済がその見舞いを行ったのだろう。三月甲申朔は俀国の暦で、新羅が領有する任那を守るために高麗・百済に使者を送った。冬十一月庚辰朔は正しい日干支、新羅攻撃を相談している。十年春二月己酉朔と夏四月戊申朔は俀国の暦、新羅討伐の将軍の來目皇子が筑紫にやってきた記事だ。

六月丁未朔は正しい日干支、來目皇子が病に臥し、新羅攻撃を中止した。十一年春二月癸酉朔と夏四月壬申朔は俀国の暦、筑紫での情報で、來目皇子が薨じ、兄の當麻皇子が将軍になったという知らせなのだろう。秋七月辛丑朔は正しい日干支で、當麻皇子が難波を出た。冬十月己巳朔の日干支は正しく、小墾田宮に遷都した。豊浦宮は倭国の宮で皇子が豊浦皇子なので、理に適う。それまでは倉梯宮が首都だったのだろう。

十一月己亥朔は俀国の暦、太子が「我有尊佛像」と述べている。俀国伝によく合う。十二月戊辰朔、十二年春正月戊戌朔は正しい日干支、畿内の記録だろう。『日本書紀』は「徳仁禮信義智」、俀国伝は「德仁義禮智信」と位順が違う。夏四月丙寅朔は俀国の暦、憲法十七條は上宮法皇の制定である。十三年夏四月辛酉朔、五月甲寅朔は正しい日干支、高麗から祝いが届き、倭国・秦王国の記事ならよく合う。与えた領土も坂田郡、息長氏の領地だ。

十五年春二月庚辰朔も正しい日干支で壬生部を定めた畿内の記事だ。秋七月戊申朔は正しい日干支、煬帝との面会が翌年大業三年なのだから、俀国に連れられて隋に渡ったのだろう。608年、十六年六月壬寅朔、秋八月辛丑朔、秋九月辛未朔の唐客裴世清の記事も正しい日干支で、俀国で不調だったので、倭国と友好関係になったのだろう。大業六年610年に倭国は隋に朝貢した。俀国は607年から隋と断交したので、よく合う。

0 件のコメント:

コメントを投稿