四年春二月癸酉朔の間人大后の薨は俀国の暦、665年の出来事だろう。三月癸卯朔の間人大后のための三百卅人の出家は正しい日干支なので、違う年かもしれない。九月庚午朔の劉徳高派遣、十一月己巳朔の劉徳高饗応は俀国の暦、唐軍駐留が始まった。十二月戊戌朔の劉徳高への「賜物」は正しい日干支、白雉五年二月の劉徳高が船で帰った記事に続くのだろう。冬十月己亥朔の菟道訪問は正しい日干支、天智十年の記録、中宮天皇の宮五年なのだろうか。
五年春正月戊辰朔の高句麗の使者の能婁の来日は正しい日干支、夏六月乙未朔の能婁の帰国は俀国の暦、来日は朝鮮の記録なのだろうか。冬十月甲午朔の高句麗奄𨛃(あむす)の来日は俀国の暦、666年の記録で正しいだろう。
六年春二月壬辰朔の天豐財重日と間人皇女の合葬は正しい日干支、680年以降の記録だ。間人皇女が義姉妹での合葬は奇異だが、親子ならば理解できる。十一月丁巳朔の劉仁願の記録は正しい日干支、熊津都督府の記録可能性がある。
七年春正月丙戌朔は間違いの日干支、695年の日並の即位の可能性がある。また、浄御原七年、679年に中宮天皇が禅譲した可能性もある。二月丙辰朔の倭姫の皇后即位は俀国の暦、668年であっているだろう。夏四月乙卯朔の百済の使者来日は正しい日干支のため、いつのことか不明だ。高句麗も百済も王はこの年に退位したが、崩じて支持する土地や住民が消えたわけではない。668年に来日した記録が、公式ではなく、私的に旧倭国の豪族への訪問だった可能性がある。秋九月壬午朔と十一月辛巳朔の新羅の使節は俀国の暦、668年でよいだろう。
年候補
丙戌1月2日 695年(694年12月29日晦日)
丙戌2月朔日 668年
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