真実の古代では『日本書紀』の日干支が間違ったところに当て嵌めたものがあったことを示した。朔日の日干支をユリウス数から求め、日蝕の日干支を中国の日干支に比べたところ、ほゞ、あっていた。中国の日蝕の日干支が95%正しかったが、日本の日蝕の日干支は80%正しかっただけ。
私の暦は標準の暦、ユリウス数0がユリウス暦に換算すると紀元前4713年1月1日 正午(ロンドン)からの日数。それが基準だ。その数値が中国の史書の暦と95%、現代の旧暦と100%合っている。ただし、中国は晦イコール朔だった。そして、『日本書紀』は中国の史書と符合するように編んだことを示した。たとえば、卑弥呼の遣使が238年景初二年を239年景初三年に記した。中国を信用していたのだ。
日干支を使った最初は周武王の「十一年十二月戊午」、最初の晦の使用は「高祖三年冬十月甲戌晦」、後に高祖が10月を1月にするので、紀元前204年1月1日である。最初の朔の使用は「惠帝紀八年春正月辛丑朔」、紀元前188年1月1日である。
ところが、日本での最初は前667年十月丁巳朔、中国が知らない暦だ。日本には東洋の暦を創った羲和がいた。夏至や冬至を知っていた。天降って一百七十九萬二千四百七十餘歳と干支(おそらく十干)を数えた。高千穗の宮にいた年数伍佰捌拾歳を数えた。適当な数値なら、もっと簡単な数値で十分。ある種の記号を高千穂宮に残していたことが解る。4900年間も毎日数えたのだろう。
氏族の長は「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を建立して、記録を残した。そしてその場所を移動する時も、同様に宮柱を建立した。そして、その記録が、朔日を基準にした日干支と記録だった。史書に適当な数値や日干支が無いことを述べてきた。
以降、『日本書紀』の記録挿入場所が20%間違っていたことを踏まえ、中国史書、『古事記』、『旧事本紀』を利用して、真実の古代史を検証していこう。
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