七年春正月辛卯朔の高市皇子への淨廣壹授与、三月庚寅朔の日蝕、夏四月庚申朔の雨乞い、六月己未朔の高麗沙門福嘉の還俗、秋七月戊子朔の吉野宮への行幸、八月戊午朔の藤原宮地への行幸、九月丁亥朔の日蝕、冬十月丁巳朔の観兵の詔勅、十一月丙戌朔の吉野宮行幸、十二月丙辰朔の諸国に陣法を習わせた記録は畿内の記録である。二月庚申朔の新羅の遣使は九州の暦、都督府の記録である。五月己丑朔の吉野宮へ行幸も九州の暦、鸕野讃良皇女か高市太政大臣が行幸したのだろうか。
八年春正月乙酉朔の布勢御主人と大伴御行を加増と氏上授与、三月甲申朔の日蝕、夏四月甲寅朔の河内王へ淨大肆贈、六月癸丑朔の河内国更荒郡の白山鷄献上、秋七月癸未朔の諸國へ巡察使派遣、八月壬子朔の飛鳥皇女のための百四人出家、九月壬午朔の日蝕、冬十月辛亥朔朔の白蝙蝠捕獲、十一月辛巳朔の恩赦、十二月庚戌朔の藤原宮への遷都は正しい日干支、畿内の記録である。文武天皇の遷都は704年なので、天智天皇が藤原宮に遷ったのだろうか。日並は文武天皇が蜂起した時、浄御原に居たとある。八年は五月癸未朔の内裏での饗応のみ九州の暦である。
九年春正月庚辰朔の舍人皇子へ淨廣貳授与、潤二月己卯朔と八月丙子朔と十二月甲戌朔の吉野宮へ行幸、三月戊申朔の新羅から遣使、夏四月戊寅朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、五月丁未朔の隼人大隅への饗応、六月丁丑朔の雨乞い、冬十月乙亥朔の菟田吉隠への行幸は正しい日干支、畿内の記録である。秋七月丙午朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、九月乙巳朔の恩赦は九州の暦、都督府の記録だろう。
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