天武天皇の内容は『日本世記』の内容で、九州の暦は筑紫都督府・浄御原宮の記録、正しい日干支は畿内の天智天皇の記録と考えられた。持統天皇の内容もおおむね同じだろう。そして、一部、元明天皇の記録と大長年間の記録が混じっていると考えられる。菟野讚良皇女は世代的に天智天皇と同世代の義妹と考えられる。天智天皇の皇后が馬子の家系の倭姫、日並が彦人の家系の鏡王の娘の額田姫を皇后にした。当然、その頃の最高権力者の娘たちだ。
持統天皇は總持天皇、皇祖母が額田姫だったと考えられる。鏡王の祖は宣化天皇の子の偉那公の祖の上殖葉大王、その娘が大俣王、その婿が彦人、その子が猪名鏡公高見である。額田姫と大村は兄妹だろう。
皇后が大后と呼ばれた時、東宮が後を大后に任せ、諸政は大友皇子に任せるように進言した。大友皇子は日並天皇の娘の十市皇女の婿、703年の出来事である。大友皇子は太政大臣、九州の浄御原で統治していたと思われる。持統上皇は702年に三河へ、文武天皇も尾張や美濃・伊勢・伊賀に行幸している。これは、額田大后の逃避行なのではないか。そして、大長元年・景雲元年(704年)に文武天皇が勝利して藤原宮で即位した。
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