2026年3月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇4

十年春正月己亥朔の蘇我赤兄の年始の挨拶は正しい日干支、670年だろう。二月戊辰朔の百済の遣使は俀国の暦、671年で正しいと考えられる。唐の駐留が始まり、百済の残務処理の相談なのだろう。五月丁酉朔の小殿での宴は俀国の暦、天武十年の宴と同じ記事かもしれない。六月丙寅朔の百濟三部の使人は正しい日干支、秋七月丙申朔は俀国の暦の百済記事は二月の記事の続きなのだろう。これ以降百済の使者の記事が無く、帰化した人々の記事のみになる。

八月乙丑朔の高句麗の使者も正しい日干支、百済と同じようだ。冬十月甲子朔の新羅の遣使は不明だが、新羅は百済での残党との戦況は思わしくなく、日本に使者を派遣する理由はある。

十一月甲午朔の筑紫君薩野馬の郭務悰の来日の先触れ記事は正しい日干支だ。六百人で恐れると記すが、天智八年には二千人、天智四年にも二百五十人が来日している。すなわち、それ以前の天智三年五月の来日記事と私は理解した。実際のこの来日は、筑紫都督府の高級官僚が来日したのだろう。天武元年は筑紫都督府元年と考えられる。

十二月癸亥朔の天皇崩は俀国の記事、694年の記録だろう。天武天皇即位前紀には天智十年を不明な四年と記す。天智即位は天智六年とする本があったと記すので、これは、ある本と書記編者が認めた記録の少なくとも2つの紀年があったことを意味する。一つは天智の長津宮元年、もう一つは白鳳元年である。従って、この四年は白鳳四年の孝徳天皇の崩御なのだろうか。

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