2026年3月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇6

  十一年春正月乙未朔の叙勲、三月甲午朔に新都の調査、五月癸巳朔の倭漢直に連を賜姓、六月壬戌朔の高句麗、新羅の遣使、秋七月壬辰朔の隼人の遣使、九月辛卯朔の礼法の改革、十一月庚寅朔の刑法の詔勅、十二月庚申朔の氏上の詔勅は畿内の出来事だろう。二月甲子朔の新羅の使者の金忠平の帰国、四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、八月壬戌朔の順法の詔勅、冬十月辛酉朔の酒宴は九州の暦だ。金忠平は筑紫で饗応され九州の暦で記した。

 中宮天皇の崩御のため、天智天皇は夜の天皇で祭祀を、成務は九州の大海皇子が担当したのだろうか。そのため、実権を大海皇子に奪われ、壬申の乱が始まる、694年に大友太政大臣、日並天皇も再度の戦乱に対して持統四年、すなわち、文武四年700年に、高市太政大臣が軍務を遂行したのだろう。

 十二年春正月己丑朔の群臣の拝賀、二月己未朔の大津皇子が初出仕、夏四月戊午朔の銀銭廃止、六月丁巳朔の大伴連望多の薨、八月丙辰朔の大伴連男吹負の卒、九月乙酉朔の大風、冬十月乙卯朔の十四氏に連を賜姓、十一月甲申朔の戦術を習わす記録、十二月甲寅朔の国境の決定は正しい日干支、天智天皇の政策である。三月戊子朔の僧の統領を法に準じる詔勅は九州の政策だろう。秋七月丙戌朔の鏡姫王の見舞いは、『興福寺流記』に記される嫡室の鏡女王ならば、鎌足が薨去する692年時点でも生存中だ。藤原宮十二年の705年なのだろうか。もし、額田姫の母なら、世代的に相応しい。

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