十一年春正月乙未朔の叙勲、三月甲午朔に新都の調査、五月癸巳朔の倭漢直に連を賜姓、六月壬戌朔の高句麗、新羅の遣使、秋七月壬辰朔の隼人の遣使、九月辛卯朔の礼法の改革、十一月庚寅朔の刑法の詔勅、十二月庚申朔の氏上の詔勅は畿内の出来事だろう。二月甲子朔の新羅の使者の金忠平の帰国、四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、八月壬戌朔の順法の詔勅、冬十月辛酉朔の酒宴は九州の暦だ。金忠平は筑紫で饗応され九州の暦で記した。
中宮天皇の崩御のため、天智天皇は夜の天皇で祭祀を、成務は九州の大海皇子が担当したのだろうか。そのため、実権を大海皇子に奪われ、壬申の乱が始まる、694年に大友太政大臣、日並天皇も再度の戦乱に対して持統四年、すなわち、文武四年700年に、高市太政大臣が軍務を遂行したのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿