2026年3月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇2

  元年春三月壬辰朔の郭務悰の哀悼は俀国の暦、695年の大化元年の記録と考えられる。夏五月辛卯朔の郭務悰への賜物は正しい日干支、都督府への献上なのだろう。六月辛酉朔の太皇弟の美濃逃亡は正しい日干支である。中宮天皇が都督府へ行き、皇弟が美濃に逃れた。秋七月庚寅朔の近江入りも正しい日干支で672年の説話だろう。八月庚申朔の高市皇子の罪状宣下の説話は俀国の暦、大宝元年だろうか。高市皇子は日並の娘十市の婿と考えられ、672年頃の高市皇子まだ生まれていない。九月己丑朔の桑名からの帰還、冬十一月戊子朔の新羅使の饗応、十二月戊午朔の勲功が有った者への加増は正しい日干支、672年の説話なのだろう。

二年春正月丁亥朔の宴会、二月丁巳朔の飛鳥淨御原宮での皇后就位は九州の暦、694年の遷都の説話だろうか。三月丙戌朔の白雉献上、大來皇女の天照大神宮の祭祀、夏五月乙酉朔の任官の心得も、秋八月甲申朔の紀臣阿閇麻呂の壬申年勲労も九州の暦、『続日本紀』で無位の紀臣の阿閇麻呂は紫冠を得ているので、日並による勲功なのだろう。九月癸丑朔、冬十一月壬子朔の新羅の金承元記事は正しい日干支、難波にやってきた。十二月壬午朔の賜祿や加級も正しい日干支で畿内の記録である。

壬申年之功労で、676年村國連雄依が小紫を贈られた。また、685年に當麻眞人廣麻呂、686年に羽田眞人八國が直大參から特進で直大壹を贈られた。しかし、716年に子たちに贈られたのは小依のみ、701年に贈られた人々が多数いる。爵位を贈られる大功の最後が八國の686年、この時八國が50歳代なら、その他の人々も同程度以上の卒の人物と考えられる。すると、716年の「功臣贈」は子息ではなく孫や曾孫となってしまい奇異だ。それが、700年前後の戦いとするならば、とても相応しい。また、雄依は701年に百廿戸の贈ではなく賜、死後は贈で賜は直接本人に与えることを言うはずだ。

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