邪馬台国は、どこにあったのだろうか?古代史最大の謎。時代を越えて、何度も語られ、何度も迷い続けてきた問いである。議論がはじまると、いつも聞こえてくる声がある。
「『三国志』なんて 矛盾だらけ」
「方角も距離も ぜんぜん合ってない」
「だから 信用できるわけがない」――
しかし、そう言うなら、こう問い返してみたくなる。だったら、なぜみんな今でも『三国志』を使っているのか? もし本当に信じられない史料ならば、もう頭から捨ててしまえばいい。考古学だけで勝負すればいいではないか。
たとえば、奈良県の纏向遺跡。炭素年代は卑弥呼の時代とぴたりと重なる。巨大な建築、濠、祭祀の痕跡、都と呼ぶにふさわしい規模と構造だ。「ここが邪馬台国だ」と言いたくなるのも当然。ではもう『三国志』は必要ないのでは? 行程も距離も捨ててしまって、考古学だけで完結させればいい。
纏向が邪馬台国だ、と言いたくなる気持ちはよくわかる。「邪馬台国は日本の首都大和でなければならないのだから?」と言っているから。ではもう『三国志』はいらない? そう、行程も距離も捨てて、考古学だけで、済む話ならば。
しかし、人はそれがなぜかできない。理由は、きっとひとつ。「信じたい」からだろう。
「卑弥呼は本当にいた」
「でも、魏志の距離はちょっと変だ」
「方角もおかしいし、たぶん間違いだろう」
「纏向宮は130年までだった。」
「神功皇后は纏向にいなかった。」
「ならば、纏向女王ではなくてもいいや」
「だから、僕の結論に都合よく細部を調整してしまえ」
そうやって、〝信じたいところだけを信じる″態度で、日本全国に邪馬台国。もはや史料批判とは呼べない。
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