2023年2月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『上宮聖徳法王帝説』1

  江戸後期の『上宮聖徳法王帝説』狩谷望之編は「伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇娶庶妹穴穂部間人王爲大后生児厩戸豊聰耳聖徳法王次久米王次殖栗王次茨田王又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子伊志支古那郎女生児多米王又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子伊比古郎女生児乎麻呂古王次須加弖古女王(此王拝祭伊勢神前至于三天皇也)合聖王兄弟七王子也聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子名菩岐岐美郎生児舂米女子次長谷王次久波太女王次波止利女王次三枝王次伊止志古王次麻呂王次馬屋古女王又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子刀自古郎女生児山代大兄王(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也後人与父聖王相濫非也)次財王次日置王次片岡女王又聖王娶尾治王女子位奈部橘王生児白髪部王次手嶋女王合聖王児十四王子也山代大兄王娶庶妹舂米王生児難波麻呂古王次麻呂古王次弓削王次佐々女王次三嶋女王次甲可王次尾治王聖王庶兄多米王其父池邊天皇崩後娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支廣庭天皇(聖王祖父也)娶檜前天皇女子伊斯比女命生児他田宮治天下天皇(聖王伯叔也)怒那久良布刀多麻斯支天皇又娶宗我稲目足尼大臣女子支多斯比賣命生児伊波礼池邊宮治天下橘豊日天皇(聖王父也)妹少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇(聖王姨母也)又娶支多斯比賣同母弟乎阿尼命生児倉橋宮治天下長谷部天皇(聖王伯叔也)姉穴太部間人王(聖王母也)右五天皇無雑他人治天下也(但倉橋第四少治田第五也)少治田宮御宇天皇之世上宮厩戸豊聰耳命嶋大臣共輔天下政而興隆三寶起元興四天皇等寺制爵十二級大徳少徳大仁少仁大礼少礼大信少信大義少義大智少智池邊天皇后穴穂部間人王出於厩戸之時忽産生上宮王王命幼少聰敏有智至長大之時一時聞八人之白言而辧其理又聞一知八故号曰厩戸豊聰八耳命池邊天皇其太子聖徳王甚愛念之令住宮南上大殿故号上宮王也上宮王師高麗慧慈法師王命能悟涅槃常住五種佛性之理法華三車權実二智之趣維摩不思議解脱之宗且知經部薩婆多兩家之弁亦知三玄五經之旨並照天文地理之道即造法華等經疏七卷号曰上宮御製疏太子所問之義師有所不通太子夜夢見金人來敎不解之義太子寤後即解之乃以傳師師亦領解如是之事非一二耳太子起七寺四天王寺法隆寺中宮寺橘寺蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池後寺葛木寺賜葛木臣戊午年四月十五日少治田天皇請上宮王令講勝鬘經其儀如僧也諸王公主及臣連公民信受無不嘉也三箇日之内講説訖也天皇布(施聖王物播磨國揖保郡佐勢地五十万代聖王)(以此地爲法隆寺地也)慧慈法師上宮御製疏還歸本國」、【・・・略・・・王は幼少より聰敏で智が有り、成長すると一時に八人が言うのを聞いて理解した。また、一を聞いて八を知るので厩戸豊聰八耳という。天皇は聖徳王をとても愛しく思い、宮の南の上の大殿に住まわせたので上宮王という。 上宮王の師は、高麗の慧慈法師で王命は能く涅槃常住・五種佛性の理を悟り、法花三車・權實二智の趣を明らかに開き、維摩不思議解脱の宗に通じ達した。そして經部薩婆多両家の辨を知り、また三玄・五經の旨を知り、天文地理の道を知り、法花等の經疏七卷を造り、「上宮御製の疏」といった。太子が求めた義に、師を理解できないことが有った。太子は、夢で金人を見て、解らない義を悟り、目覚めて理解した。それで師に伝え、師も認めた。こんなん事は一度や二度で無かった。太子は七寺、四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛木寺(葛木臣に与えた)を建てた。戊午年四月十五日、少治田天皇が上宮王に頼んで勝鬘經を講義させた。それは僧のようで、諸王公主や臣連公民が信じて、みなが歓び、三日の内に終わった。天皇は聖王に播磨國揖保郡佐勢の地五十万代を与え、法隆寺の地とした。慧慈法師は、上宮に疏をもたらして、本國に帰った】と訳した。

内容は『古事記』より『日本書紀』に似ているが、『日本書紀』「菟道貝鮹皇女更名菟道磯津貝皇女也是嫁於東宮聖徳」の菟道貝鮹皇女の名が記載されず、この皇女が厩戸豊聰耳の妃でないことが解る。

『上宮聖徳法王帝説』は厩戸豊聰耳の系図が詳しいが、太子なのに妃に皇室が存在せず、兄多米王のほうが皇后を妃にして、太子に相応しくて奇異であるが、稲目や馬子が怒那久良布刀多麻斯支天皇や橘豊日天皇なら文句なしに、皇位継承権が有る。

すなわち、『上宮聖徳法王帝説』の天皇は、倭国の天皇を記述しているようで、「天皇聘唐帝其辭曰東天皇敬白西皇帝」の隋朝への、それを引き継ぐ唐朝に対する立場と良く合致し、日本に敗れ、敗れた政権は蘇我氏の倭国、そして、この厩戸豊聰耳も兄多米王も、蘇我氏なので、『日本書紀』に後継の天皇が記述されなかったと思われる。

そして、『舊事本紀』と異なり、「少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇」と豐浦宮が記述されず、

厩戸豊聰耳皇太子は豐浦宮太子ではなく、伊波礼池邊宮太子で、少治田は豐浦の一部なので、603年の「遷于小墾田宮」で橘豊日の子の馬子が首都に入城して、実権を握ったのではないだろうか。

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