2023年3月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書『藤氏家傳大師』4

  『藤氏家傳大師』藤原貞幹校写版は続けて「十四年皇太子攝政・・・攝政六年春三月遷都于近江國七年正月即天皇位是爲天命開別天皇・・・是太皇弟以長槍刺貫敷板帝驚大怒以將執害大臣固諌帝即止之太皇弟初忌大臣所遇之高自茲以後殊親重之後値壬申之亂從芳野向東土歎曰若使大臣生存吾豈至於此困哉人之所思略此類也七年秋九月新羅進調大臣即付使金東嚴賜新羅上卿庾信舩一隻・・・先此帝令大臣撰述禮儀刊定律令通天人之性作朝廷之訓・・・即位二年冬十月・・・翌日而誓願无徴病患弥重・・・遣東宮太皇弟・・・仍授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣十六日辛酉薨于淡海之第時年五十有六・・・庚午閏九月六日葬於山階・・・」、【十四年、皇太子が摂政となった。・・・攝政六年の春三月に近江國に遷都した。七年正月に天皇に即位した。これを天命開別天皇といた。・・・太皇弟が、長槍で敷板を刺し貫いて、帝は驚きとても怒って、將に成敗しようした。大臣は固く諌めて、帝は止めた。太皇弟は、初めて大臣を高く評価して、以後、殊に親しみを重ねた。後の壬申の乱になって、芳野から東の土地に向うのに、「もし大臣が生きていたら、私はこの困難にあわなかっただろうに」と嘆いた。人が思うのは、だいたいこんなものだ。七年の秋九月、新羅が年貢を納めた。大臣は、使者の金東嚴に付け、新羅の上卿庾信に船一隻を与えた。 ・・・これより先、 帝は大臣に禮儀を術作して律令を刊行し、天皇の思いに通じる、朝廷のおしえを作らせた。・・・即位二年の冬十月に・・・翌日病が悪化した。・・・東宮太皇弟を派遣し・・・織冠を授けて内大臣に任命し、姓を藤原朝臣とした。十六日、辛酉に淡海の第で薨じた。年令は五十有六。・・・庚午閏九月六日に、山階精舎に葬った。・・・】と訳した。

即位二年669年の「授織冠以任太政大臣改姓爲藤原朝臣」は奇異で、684年天武十三年の「更改諸氏之族姓・・・一曰眞人二曰朝臣・・・」、「・・・中臣連・・・凡五十二氏賜姓曰朝臣」と、684年に中臣朝臣に賜姓以降のはずで、692年5月に「鎭祭藤原宮地」と藤原宮の建設が始まり、十月に藤原姓賜姓は理解でき、『続日本紀』698年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之」と、藤原朝臣に藤原朝臣を賜姓することは有り得ない。

すなわち、それ以前は中臣朝臣と思われ、鎌足は中臣朝臣だった姓に、一人だけ藤原姓を与えられ、天智紀は大化5年以降に記述されたから、藤原姓が記述され、698年に他の人々も藤原朝臣を与えられたのであり、685年「更改爵位之號仍増加階級明位階・・・并册八階」は、大化3年697年の可能性がある。

『日本書紀』は皇極天皇から天智天皇まで、恐らく大化5年699年頃に、俀国王の末裔が記述したと考えられ、吉備姫・茅渟王・萬豊日・豐財重日・天命開別の王位継承を記述していて、倭国の最高権力者嶋皇祖母に対して、もう一人の皇祖母が、「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等往居于倭飛鳥河邊行宮」、「皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟公卿等」、「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」と天皇になった皇祖母が存在した。

661年に死亡した皇祖母は、643年薨の嶋大臣妃の嶋皇祖母に対して、吉備姫の吉備皇祖母と考えられ、吉備姫は『古事記』「沼名倉太玉敷・・・小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣・・・太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と糠代比賣が実子の妃というのは奇異である。

すなわち、糠代比賣と寶王は親子で糠代比賣が岡本宮天皇を生み、子若しくは姪の吉備姫・寶王が知奴王に嫁ぎ、知奴王が岡本宮皇太子、そして、寶王が皇極天皇さらに吉備姫皇祖母となり、倭王稲目の家系を継ぎ、661年に崩じ、後に、やはり稲目の家系の鏡姫が後継し、白鳳改元を行ったと考えると理に適う。


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