2023年3月10日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』(『論理的な日本古代史』)はじめに

  これまで、『日本書紀』を天文学的日干支を使って分析した結果、矛盾が頻出した。矛盾の原因は、『日本書紀』の一書群が多数存在し、さらに、「魏志云」や「百濟記云」と他書から引用したからである。『魏志』や百濟記事が掲載される『三國史記』には日干支はほとんど記述されず、元号や王の在位年が記述されていた。そして、『日本書紀』を記述したのが葛城氏や蘇我氏だった。しかし、これらの氏族は、同じように葛城氏と蘇我氏が記述した、『古事記』と同様に日干支の記録を持っていなかった。

 『古事記』では、天皇の死亡記事は注記で日付を追加した。その日付は蘇我氏に『古事記』とは別の『墓記』から引用したからと思われる。持統5年に「紀伊平群羽田・・・上進其祖等墓記」と記述されて、葛城氏の後裔の墓記、持統天皇の祖父は蘇我山田石川麻呂大臣で蘇我氏だ。従って、『古事記』注記に『日本書紀』のように死亡日を追加できるはずが、墓記には年干支と月日が記述されただけだったと思われる。

 年干支は間が60年を超えると意味を成さないが、死亡日が60年を超えることは無かったと考えるべきだろう。もし、60年を超える場合は何らかの記述がないと見分けが出来ない。死亡日を書き出してみる。『日本書紀』の死亡年戊子の豊御食炊屋比賣は『古事記』と同じで、戊子628年三月十五日癸丑崩。同じく壬子死亡の長谷部若雀は壬子592年十一月十三日崩。丁未崩の橘豊日も丁未587年崩である。しかし、乙巳585年崩の沼名倉太玉敷は甲辰584年崩。しかし、辛卯571年崩の押波流岐廣庭、己未539年崩の建小廣國押楯は『古事記』に記述が無い。しかし、乙卯535年崩の廣國押建金日は『日本書紀』と同じく乙卯崩である。

 すなわち、沼名倉太玉敷、押波流岐廣庭、建小廣國押楯の時代には別に蘇我氏以外に天皇が存在していたことを示している。さらに、辛亥531年崩の袁本杼は丁未527年崩。そして、再び、丙戌506年崩の小長谷若鷦鷯、戊寅498年崩の意祁、丁卯487年崩の袁祁、甲子484年崩の白髪大倭根子は『古事記』に死亡日が無い。そして、己未479年崩の大長谷若建は己巳489年崩、丙申456年崩の穴穂は『古事記』に記述が無い。癸巳453年崩の男浅津間若子宿祢は甲午454年崩。庚戌410年崩の水齒別は丁丑437年崩。乙巳405年崩の伊耶本和氣は壬申432年崩。己亥399年崩の大鷦鷯は丁卯427年八月十五日崩で、『日本書紀』と異なるが『舊事本紀』「八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と同じである。しかし、仁徳83年は己亥で、『日本書紀』と異なる。

 すなわち、蘇我氏は日向襲津彦(武内宿祢)が葛城襲津彦を生んだ時、物部氏と血縁を持ったと考えられる。そして、その子が蘇我石河宿祢で、それ以降の蘇我氏の墓記を『古事記』の死亡年としたと思われる。そして、それ以前の、庚午310年崩の品陀和気は甲午394年崩。庚辰200年崩の帯中日子は壬戌362年崩。庚午190年崩の若帯日子は乙卯355年崩で、景行・垂仁は『古事記』に記述が無し。そして、辛卯前30年崩の御真木入日子印恵は戊寅318年崩であろう。それは丁度、尾張氏の政権下で、物部氏と姻戚関係だった可能性が高い。

 このように、特に蘇我氏には紀年がある資料が無く、しかも、『日本書紀』には『古事記』や『舊事本紀』以上の内容が記述されている。すなわち、蘇我氏や物部氏以外の資料を対応させなければならない。それを実行するため、物部氏の紀年と倭国の紀年等、複数の紀年を持つ氏族の資料と対応させたと考えられる。その紀年は中国の元号、『三國史記』の元資料の王の在位、高千穂宮の継続年数などで、それらを対応させた。その結果が『日本書紀』なので、『舊事本紀』や『古事記』、中国・朝鮮史書などを分析すれば、その結果で、真実の日本古代史が解る。すなわち、『日本書紀』は起きた事件を違う時期に挿入したり、主語を換えて挿入した。そんな記事だから、それを再検討すれば、真の古代史、論理的な古代史が解る。

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