2023年3月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書その他2

 前項で、『続日本紀』も元明・元正天皇が完成させた『日本書紀』のため、出生を改竄された可能性に触れたが、桓武天皇が737年生れで806年死亡、父の光仁天皇は709年生れの782年死亡で、桓武天皇は28歳の時の子で、光仁天皇の父志貴皇子は716年に死亡し、志貴皇子は709年が25歳程度と考えるのが妥当で、684年生れとなってしまい、志貴皇子は早くても680年以降の生れで、天智天皇は680年以降も生存していたと考えられる。

『新唐書』は白壁以降は親子関係を記述せず、「欽明之孫女雄古立」、「其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死其子天豐財立死子天智立・・・天智死子天武立死子總持立・・・其王文武立改元曰太寶・・・文武死子阿用立死子聖武立改元曰白龜・・・聖武死女孝明立改元曰天平勝寶・・・孝明死大炊立死以聖武女高野姫爲王死白壁立」と唐と同時代で「仲満慕華不肯去易姓名曰朝衡」と安倍仲麻呂の知識が反映された続柄が記述され、白雉と改元した天皇は豐財の父なので茅渟王と述べている。

730年建造の『美努岡万墓誌』で、「飛鳥浄御原天皇御世甲申年正月十六日勅賜連姓藤原宮御宇大行天皇御世大宝元年歳次辛丑」と701年に前天皇の諱が決まらないとしているのに、藤原宮天皇、すなわち701年は新しい藤原宮天皇、730年の『美努岡万墓誌』には藤原宮天皇と呼ばれる文武天皇が即位したことを示している。

710年和銅三年十一月、平城京遷都の時建造の『伊福吉部臣徳足比売墓誌』に「藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月・・・和銅三年十一月十三日己未」と文武天皇の崩じる前、すなわち、文武天皇が崩じる直前でも、大行天皇と記述し、730年建造の『美努岡万墓誌』にも、「藤原宮御宇大行天皇御世大宝元年歳次辛丑五月使乎唐国平城宮治天下大行天皇御世・・・天平二年」と建造時には大行天皇は不要でも記述されている。

677年建造の『小野毛人墓誌』には「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」、689年持統3年建造の『采女氏塋域碑』に「飛鳥浄原大朝廷」、700年建造の『那須国造碑』も「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮」と、天武天皇在位中に大行天皇とは記述されず、文武・元明天皇には大行でない天皇が存在したことを示している。

また、『長谷寺銅板法華説相図』には「歳次降婁漆菟上旬道明率引捌拾許人奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造」と大行天皇が記述されないにもかかわらず、干支を使わないで、『古事記』の「歳次大梁月踵侠鐘清原大宮昇即天位」の大梁が使用され、12年以内しか分別できないにも関わらず使用し、文武元明朝では飛鳥清御原大宮治天下と大梁や降婁が記述されれば理解できる用法があった事を示し、大行天皇を使用していないのだから、降婁は文武即位4年・大化6年・700年に造られたことを示している。

そして、708年に刻んだ『大村骨臓器銘文』には「後清原聖朝初授務廣肆藤原聖朝小納言闕」と藤原聖朝の前に後清原聖朝、すなわち、清原聖朝には前後があったようで、天武天皇元年文武クーデタの「遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」、『古事記』「清原大宮昇即天位」が後清原聖朝、朱鳥元年「改元曰朱鳥元年仍名宮曰飛鳥淨御原宮」が前清原聖朝で、前清原聖朝が大化元年695年から、後清原聖朝が大宝元年からと考えられる。

すなわち、鸕野皇女は645年4・50歳位の蘇我山田石川麻呂大臣の孫なので、天智と同年代、母が一書に茅渟娘と記述され、茅渟王の妃の吉備姫の娘の可能性があり、吉備姫が稲目の家系で建元の権限を持ち、吉備姫の娘が鸕野皇女で2代目鏡姫は従妹の阿陪皇女・額田姫の可能性がある。

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