2023年3月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』類書まとめ

  これまで、『日本書紀』と同時代の史書や金石文で『日本書紀』を検証してきたが、学者は『日本書紀』が720年に官僚が創った史書で史実ではないとの説、また、国史なので『日本書紀』が史実で他の史書・金石文が造作との意味不明な説、金石文を誰が何のために造作したのか証明不能なのに、証明できなければ良い説、更に神功皇后からは信頼できる、継体天皇から信頼できるなど、これも同じく、証明不能で評価が確定していない。

金石文が信頼できなければ、信頼できるものはないので、歴史など研究するべきでないのに、自説に都合の良い所は正しい、都合の悪い所は間違いと、良いとこ取りの、全く論理的とは言えない説が支持され、非論理的な説を定説にして、新説にする説すら存在し、根拠もないのにそれが通説となっているものすら存在する。

『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』の「獲加多支鹵」と『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』「治天下獲□□□鹵大王」をワカタケルと読むと決めてしまったが、獲は『日本書紀』で約60個有り、読みは「とら」える、「と」、「え」、「う」、「たも」ち、禽獲で「とりこ」以外なく、『古事記』は10個すべて「え」、『舊事本紀』も9個あって全て「え」で、歌の「わ」には「和」「涴」「輸」「倭」、表意文字に「丸」、「勾」を使っている。

もちろん、「獲」を「か」とも使っていないが、肥後で治天下の王は倭国・分身国・侏儒国・大漢国・扶桑国・女国から俀国・倭国・秦王国と変化した統治体制を見れば、埼玉県の支配者は畿内との間に「女国」が存在するため、都督・上毛野君・下毛野君の支配、熊本県は俀国か倭国が支配して、別王朝が存在して雄略帝とは決められないが、『日本書紀』の都合の良い所、若武が唯一の天皇だったと信じることで、ここの治天下大王を雄略帝と決めつけてしまった。

他書には『日本書紀』と異なる、倭の5王や多利思北孤などの王達が存在するのに、それを無理やり天皇と紐付け、合わない所は中国史書が間違いと片付けるが、日蝕の日干支や朔の日干支を検証すると、中国史書はほとんど正しいが、『日本書紀』や『舊事本紀』には合っているのも間違っているものも同程度あり、『日本書紀』は『舊事本紀』を記述した氏族の記録を流用し、『日本書紀』・『舊事本紀』両書とも他王朝の記録を流用したことが解った。

『古事記』を作成したのは仁賢天皇で葛城氏、完成させたのは馬子と推古天皇で蘇我氏なので、遠慮なく葛城氏が天皇で、その歴史を書けば良いが、日干支の記録を持たずに、「乙卯年三月十五日崩也」などと年干支と月と日の記録しか持たず、『古事記』を完成させた蘇我氏や、天氏や中臣氏が記述した『日本書紀』には日干支が記述された。

そして、『舊事本紀』は作成した推古天皇より後は物部氏の天皇ではないので、「天孫本紀」に物部氏の関連氏族を記述し、『舊事本紀』記述時の天皇・蘇我氏・葛城氏との関連を「皇孫本紀」以降に記述し、物部氏にとっては大連が天皇だったことを示し、『日本書紀』を作成した葛城氏・蘇我氏は日干支の記録を持っていないので、物部氏の記録を利用しなければならなかったと考えられる。

物部氏の記録は、最初の大連の大新河以前から記録があり、大連は「奉齋神宮」によってその地位を示し、石上神宮にその記録があった事が解り、石上神宮は布都大神を祀り、韴(布都)靈は建甕槌が持っていたもので、初代天皇天日方奇日方から引き継いだ記録と解る。

すなわち、『舊事本紀』も『古事記』も『日本書紀』が流用した氏族の記録だったことが解り、両書とも金石文と同等の真実を記述した文書だったと解った。

次からは、これらをもとに、真実の日本史を提示していきたい。

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