『日本書紀』も『舊事本紀』も『古事記』も文頭は国生み神話である。神話は紀年が解らないから、神話だ。その神話の時代を記述した文書が中国にあり、『山海經』である。その『山海經』に、『海外南經』の冠帶する国に周饒国があり、日本海南部を統治する国だ。周饒国は「三首東」と三首国の東にある。三首国は「一身三首」と3島で一国を構成する国で、その東が周饒国だ。周饒国は「焦僥國」とも言い、『大荒南經』にも「焦僥之國」が存在する。『大荒南經』は南太平洋のことで、『海外南經』と接して、「焦僥之國」は丁度その接点にある。すなわち、「焦僥之國」は関門海峡の辺りにある国と解る。だから、隠岐の人々は元々関門海峡・豊国の人で、「其為人短小」・「有小人」と記述された。『三国志』に「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」と倭から200㎞、「焦僥之國」に当たる地域が記述される。海路なら豊後半島、陸路なら日向で、『日本書紀』にも景行紀に「碩田」の遠征で「土蜘蛛」がいた。土蜘蛛は地を這うように背が低いと考えられ、碩田は国東半島の南である。すなわち、周饒国の人々は隠岐島後に住む、豊後出身の人物が建国した国と理解される。
隠岐の伝説を記述した、『伊未自由来記』がある。『伊未自由来記』には「隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等」と記述された。これが、『古事記』「如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遅神」のモデルだ。『日本書紀』一書に「豐國主尊・・・亦曰葉木國野尊」と豊国は葉木国と呼ばれ隠岐の人々の出身地である。すなわち、「阿斯訶備比古遅」の前に、「葉木國野尊」が生れた。だから、木葉の比等(日人)と呼ばれ、男女二人(爺・婆)で、火を作る道具や、釣をする道具を持っていた。神生み神話は、海川山を生むが、「み」・「か」・「ま」が神、「宇摩」は海と同じ「う神・う魔」、「やま」は八国の神で魔と思われ、山祇は野と津の神だ。そして、最初の神の子は「生木祖句句廼馳次生草祖草野姫」、草は葉で木葉、国生みで「葉木國」が生れた。因幡の白莵の伝説は、宇佐の国(岐)の人物が鰐すなわち舟に乗って隠岐まで渡った説話ではないだろうか。
木葉比等は「西方千里」の加羅斯呂から来たと記述する。短里50㎞では海の中なので、長里400㎞なら、直線では朝鮮半島の中で、国東からなら400㎞程度である。『伊未自由来記』には原本が残っていないので、里単位が時代につれて変化したのだろう。そして、木葉比等は舟に乗り新天地隠岐の三子島に着いて、三首国の祖となった。恐らく、アカホヤの紀元前5千年より前、対馬海流が流れ始めた以降の事だと思われる。その後、アカホヤで逃げて来た海人が多数三子島にやって来た。漁は年中釣れるので、危険を犯して移動する必要が無い。何らかのきっかけがないと、移住する必要が無いからである。木葉比等の同族も続いて到着しているのは制御できない海流があったからと思われる。そして、海人も最初は出雲に逃げたようだが、迫害されて隠岐に逃げて来たようだ。
海人の中に「海人の於佐神」が於母島の東後の奈岐の浦に住み着いた。これが、於(隠)国(岐)の佐神の奈岐と奈神(み)、「於佐奈岐」と「於佐奈神」で、「於の凝呂島」の話である。塩を垂らしたのは、釣り糸か魯か縄だと思われる。『古事記』「坐而見立天之御柱見立八尋殿」と奈岐で八尋殿を建てて住んだモデルだ。そして、その子孫が佐の男の尊だろう。そして、「於佐之神」に変わって出雲の鞍山祇の子の「沖津久斯山祇」が、於母島の東の大津の宮に住んだ。その後、火炎土器の縄文国の八国の於漏知が出雲を支配し、さらに、隠岐も支配した。
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