2023年1月16日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書3

   『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』は「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也」とある。

この出土地は熊本県で、俀國か倭國の品と考えられ、「獲□□□鹵大王」を私は倭・豊の王の稲目の父の武小廣國押盾・馬背宿祢と億計天皇の娘の橘仲皇女の子の上殖葉皇子、この皇子は『古事記』で記述されず、恐らく蘇我倉王の父で初代稲目と考えた。

宣化天皇の項で大村の初授が「後清原聖朝」、これは、695年以降のことで、大宝元年に「擢卿除小納言」と真人の姓を得て、従五位下の小納言に抜擢され、前清原聖朝では不遇若しくは別格な人物だったと考えられ、「後岡本聖朝紫冠威奈鏡公」は672年「自嶋宮移岡本宮」の岡本聖朝と思われ、兄と思われる「猪名眞人石前」は703年『続日本紀』に正五位下の初出で714年に薨じた。

上殖葉は『古事記』には記述が無く、稚綾姫の子で2代目稲目に振り分けたと思われて、また、『大村骨臓器銘文』に「五百野宮御宇天皇之四世」とあり、大村は707年死亡、672年「大紫韋那公高見薨」の高見が鏡公なら、大村が第三子なので第1子は650年代生れ、三世の鏡公は630年頃の生れなので、早くとも上殖葉は590から610年頃と考えられるため、年代では合致せず、上殖葉が2代存在したように、金刺宮の時の皇子上殖葉の稲目は二代目だが同じ役職なら一世代とする理解のためである。

従って、『大村骨臓器銘文』の言う一世が五百野宮と金刺宮の稲目大臣天國排開廣庭で570年「稻目宿禰薨」によって二代目稲目の上殖葉の子の初代幸玉宮天皇渟中倉太珠敷が『大村骨臓器銘文』の言う二世で、『大村骨臓器銘文』の言う三世が押坂彦人・鏡王、額田の娘の小墾田皇女か櫻井玄王の子が大村と鏡姫で、『日本書紀』「鏡王女額田姫王生十市皇女」、『粟原寺鑪盤銘』「爾故比賣朝臣額田」と豐御食炊屋姫の額田を継承している。

『粟原寺鑪盤銘』には「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」とあり、訳は略すが、粟原寺は「甲午年始」と694年創建で「浄御原宮天下天皇」の天智天皇のために、東宮日並は弘文天皇、義母が額田姫で天武天皇のクーデタは701年の文武天皇のクーデタと考えられ、683年まで続く白鳳年号を改元したのは683年死亡の鏡姫と考えている。

『興福寺流記』に「嫡室鏡女王請曰別造伽藍安置前像大臣不許至于再三始乃絶之」とあり、一般に鎌足の正室と言われているが、嫡は『日本書紀』も『舊事本紀』も『古事記』も「嫡」字は神の妃や天皇の妃やその子に使用し、天智天皇の妃の親に鎌足が無く、弘文の弟の695年即位と思われる天武に妃の親の鎌足がいて世代が異なる。

鎌足の死亡は692年と思われ、興福寺は蝦夷を殺害後に創建した蘇我氏鎮魂の寺と考えられ、鎌媛大刀自と嶋大臣の子の難波天皇蝦夷の嫡室の可能性が高く、鎌足が大臣になる前の権力を得た時に伽藍建造を拒否した説話と2代目鏡媛の姫朝臣額田の粟原寺建立を拒否した説話をまとめたのではないだろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿