2023年1月18日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』用明天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱橘豐日尊者天國排開廣庭天皇第四之子也母曰皇后堅鹽媛天皇信佛法尊神道十四年秋八月渟中倉太珠敷天皇崩九月甲寅朔戊午天皇即天皇位都於磐余謂池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣元年歳次丙午春正月壬子朔穴穗部間人皇女立爲皇后生四男其一日廄戶皇子更名豐聡耳聖徳皇子或名豐聡耳法大王亦名法主王初居上宮後移斑鳩於豐御食炊屋天皇世位居東宮摠攝万機行天皇事語見豐御食炊屋姫天皇記二日來目皇子三日殖栗皇子四日茨田皇子立蘇我大臣稻目宿祢女石寸名為嬪生一男田目皇子更名豐浦皇子葛城直磐村女廣子生一男一女男日麿子皇子當麻公祖女曰酢香手姬皇子二年夏四月乙巳朔丙午御新嘗於磐余河上是日天皇得病還入於宮群臣侍焉天皇詔群臣曰朕思欲歸三寶卿等議之群臣入朝而議物部守屋大連與中臣勝海連違詔議曰何背國神敬他神也由來不識若斯事矣蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助詎生異計矣癸丑天皇崩于大殿秋七月甲戌朔甲午葬于磐余池上陵天皇(?)生皇子七六男一女」、【諱は橘豊日、天國排開廣庭天皇の第四子で母は皇后の堅塩媛といい、天皇は仏法を信じ、神道を尊んだ。十四年秋八月、渟中倉太珠敷が崩じ、九月甲寅朔戊午、即位し、磐余の地に都を造り、池辺双槻宮といった。物部弓削守屋を大連とし、また大臣とした。治世元年丙午の春一月壬子朔、穴穂部間人皇女皇后とし、(以下略)二年夏四月乙巳朔丙午、磐余の河上で、新嘗が行われ、この日、天皇は病にかかり、宮中に帰り、群臣が侍った。天皇は群臣に「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」と言った。群臣は参内して相談し、物部守屋と中臣勝海は勅命の会議で「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」と反対した。蘇我馬子は「詔に従って、助ける。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」と拒んだ。癸丑、天皇は大殿で崩じた。秋七月甲戌朔甲午、磐余池上陵に葬った。(以下略)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()橘豊日命王坐池邊宮治天下参三歳此天皇娶稲目宿祢大臣之女意富藝多志比賣生御子多米王一柱又娶庶妹間人穴太部王生御子上宮之厩戸豊聡耳命次久米王次植栗王次茨田王四柱又娶當麻之倉首比呂之女飯女之子生御子當麻王次妹須加志呂古郎女此天皇(丁未年四月十五日崩)御陵在石才()掖上後遷科長中陵也」とあり、訳は略す。

橘豊日を馬子と述べてきたが、実際の天皇は譯語田宮大連御狩の子が磯城嶋宮目大連と矛盾し、磐余の天皇が池邊宮目連とわかり、その目連の政権を継承したのが「穴穂部皇子欲取天下」の母系で目連の家系の穴穗部皇子で、その皇太子が2代目穴穗部の守屋と思われる。

馬子は『日本書紀』「推古天皇三四年夏五月戊子朔丁未大臣薨」と626年に死亡とあり、また、『上宮聖徳法王帝説』「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣臥病」と死んだ大臣が病気になるのは矛盾していて、馬子と嶋は別人で、子の嶋が641年薨なら親の馬子が626年薨は理に適う。

又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に嶋が彦人の義弟竹田王と思われる王と同盟し、「卅五年・・・辛丑薨」と627年死亡は、626年に6月辛丑が無くしかも嶋が生きているので記述したと思われ、恐らく、実際は、嶋は641年に死亡し、飛鳥天皇が嶋で皇太子が蝦夷だったと思われる。

また、守屋の乱で中臣勝海が裏切って彦人の水派宮に向かうので、彦人の名が押坂と言うように、押坂で生れていて、623年に押坂宮を男弟王に譲って水派宮に遷ったと考えられ、しかも、守屋の子雄君は飛鳥浄御原宮の時に大紫冠位を得、雄君は620年頃の生れと考えられ、守屋は600年ころの生まれとなり、守屋の乱は40年近く後の623年以降に発生したことが解る。

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